触る研究会・触文化研究会第2回例会報告
時: 2003年6月28日(土) 13:30〜15:30
参加者: 12名
目次
展示品
報告1 触図によるイメージ開発
報告2 触覚アート・プロジェクト
報告3 触覚の基礎編 (今回のメインテーマ)
●「週刊 日本の天然記念物」の動物たち
昨年(2002年)から今年の6月まで、小学館より「週刊 日本の天然記念物」が発刊されており、毎号いろいろな動物たちの簡単な組立て模型が付いています。全部で次の50点です。
イリオモテヤマネコ トキ アマミノクロウサギ ジュゴン エゾシマフクロウ ニホンカモシカ モリアオガエル ライチョウ ヤンバルテナガコガネ ニホンザリガニ ヤマネ ヤエヤマセマルハコガメ 秋田犬 ルリカケス 奈良のシカ シマアカネ ツシマテン クマゲラ ダイトウオオコウモリ ヤンバルクイナ ニホンザル コウノトリ 岬馬 タヌキ オオハクチョウ マダイ タンチョウ 土佐のオナガドリ イヌワシ 岩国のシロヘビ ミヤコタナゴ キシノウエトカゲ トゲネズミ カブトガニ オオサンショウウオ ナベヅル ウスバキチョウ アカウミガメ アホウドリ ホタルイカ ヒメハルゼミ オカヤドカリ ゴイシツバメシジミ メグロ ゲンジボタル オオワシ 甲斐犬 カジカガエル ニホンカワウソ リュウキュウヤマガメ
模型はいずれも5〜10cm程度の大きさで、中には触って観察するにはかなり難しいものもあります。でも、縫いぐるみなどとは違って、動物たちの実際の姿を精巧に再現しています。また、多くの模型は、私(のような視覚障害者)でも1人で組立てることができ、その過程で、出来上がった姿を触っただけでは分からないようなことも触知できます。
第2回例会では、このうち次の10点を展示しました。(説明は主に小原がしました。)
エゾシマフクロウ (サケを捕えているところ。姿勢は前傾で、片脚は岩の上、片脚でサケを抑えている。羽の様子もよく分かる)
ニホンカモシカ (笹薮を歩いているところ。向って左前脚と右後脚が岩の上にある。脚が細い)
ニホンザリガニ (ほぼ実物大。カニのような大きなはさみ脚が特徴)
秋田犬 (雪の上に立つ姿。巻き尾が特徴)
甲斐犬 (片方の後脚だけを岩場に着け、口を大きく開けて飛び出そうとするような感じの姿。秋田犬とは異なって、尾が立っている)
ダイトウオオコウモリ (木の枝に2本の後肢と片方の前肢で逆さにつかまり、片方の前肢は何かを取ろうとするように伸ばしている。翼は畳まれており、扇子を閉じたような襞状を観察できる)
マダイ (岩場を泳いでいる姿。各鰭をよく観察できる)
土佐のオナガドリ (大きな岩の上に止まっている姿。尾が長々とくねっている様子がよく分かる)
オオサンショウウオ (後脚を岩に掛け、大きな口で魚をくわえている。前脚は宙に浮いている。体表の上面がざらざらしているのがよく分かる)
ムラサキオカヤドカリ (実物大。巻き貝から大きな脚とはさみが出ている)
この中で、コウモリとオナガドリはかなり分かりにくかったですが、その他は皆さん触ってよく分かっていました。
TKさんは、秋田犬と甲斐犬を比べて、甲斐犬のほうが耳がぴんと立っていることに気付いていました(甲斐犬をとても気に入ったようです)。
OSさんが、オオサンショウウオの模型を触って、名前を教えられる前に、触っただけでその名前を当てたのには驚きました。
SKさんは、「天然記念物はすごく分かりやすかったです。オオサンショウウオやフクロウなど初めて形が分かったものもありました。」と書いています。
次回以降も、このシリーズの別の模型を展示しようと思います。
●ユニバーサルデザイン絵本センターの絵本たち
ユニバーサルデザイン絵本センターは、昨年(2002年)4月に発足したNPO法人です。
ユニバーサルデザイン絵本として、これまでに次の4冊を出しています。
1 「てんてん」 作者/なかつかゆみこ
2 「でこぼこえかきうた」 作者/小林映子(Macこば)
3 「ゾウさんのハナのおはなし」 作者/小林映子(Macこば)
4 「チョウチョウのおやこ」 作者/金子 健(独立法人国立特殊教育総合研究所)
このうちもっとも好評だったのは、2の「でこぼこえかきうた」でした。
ブタの顔: 「円いおさらにハンバーグ」に、耳を描き、目と鼻を描き、口を描いて完成
ちょきちょきカニ: 「おむすび山」に、目を描き、脚を描き、最後に大きなはさみを描いて完成
というように、ページをめくるごとに絵が出来上がっていく様子が分かります。
3の「ゾウさんのハナのおはなし」では、ゾウがハナをいろいろな方向に動かして物を取ったり水を吸い込んだりいろいろなことをしている様子が分かります。4の「チョウチョウのおやこ」では、チョウチョウがいろいろな方向に飛んだり、花の周りを飛んだり花にとまったりする様子が描かれています。いずれもとても単純化した絵で、特徴が分かりやすくなっています。
このような絵本に盲児が小さいころから接していれば、言葉だけの世界ではなく、よりはっきりとしたイメージの世界の形成にも役立つのではないでしょうか。
●その他
KWさんが布などを使った手作りの絵本「もじゃもじゃ」と「かみのけないのこぶたちゃん」を持って来てくださいました。とても丁寧に作られていましたが、よく説明してもらわないと分からないことも多かったです。木の葉はとてもそれらしく作ってありました。それに、服の内側とか内部まで丁寧に作っていることにも感心しました。
MEさんが、素彫りのコガラを持って来られました。材料はヤクスギで、何とも好い香りを感じました。次回は別の木で作ってくるそうで、形とともに香りも楽しむことができそうです。
◆報告
第2回例会のメインテーマはMRさんの報告でしたが、今回初めて参加された太田さんと牛島さんにも、自己紹介も兼ねてそれぞれの活動について簡単に報告していただきました。
当日の話の内容を各人にまとめていただきました。以下、それを転載します。
(※付きの文章は、それぞれの当日の話の内容からの追加。[ ]内は、小原の補足的な説明。また〔論点〕は、当日の主な議論の要旨。一部メールの文章も使っている。)
※太田さんは、箕面市の一般の小学校に通っている全盲の教材作りに参加、地図や図形を担当。初めて学ぶ者にとっては、できるだけ正確なものが必要だということで、直径64cmの触地球儀や、北海道や沖縄が(日本海上や四国沖ではなく)正確な位置にあるA1の大きさの日本地図を作製。視覚障害児には、まずは全体的な把握が大事、ということです。
今日の報告は、社会の教科書に載っている人物の似顔絵・肖像画を盲児になんとか分かってもらえないかというのが発端。(以下、太田さんの文章)
触図製作のボランティア活動をとおして、視覚障害者のために挑戦してみたいテーマが2つあります。
1.触図の似顔絵(肖像画)を触れて、その人物イメージを広げることができないだろうか。
2.晴眼者が風景を見たときの感動を追体験できるような特殊構造の触風景模型を作ることができないだろうか。
この2つのテーマは、ひょっとして触文化研究につながるのではないだろうか、と思って触文化研究会に入会させていただきました。
●触知によるイメージ習得手法開発の必要性
認知心理や認知科学で扱われるイメージ習得の話は、視覚による情報入力が前提になっています。触覚情報は、個人差が大きく表現も正確さに欠けるためか研究の対象にもされていないのが実情です。触認知というキーワードさえありません。
似顔絵や風景画は、作者の抱いたイメージや感動を伝えるために、1枚の紙の上に描いた微妙な線で構成されています。また、小説などでも、晴眼者しか判らない繊細な絵画的な描写もあります。触れることによって、それをどのようにしてイメージ化し、認知すればよいか。この研究会で、少しでも文化共有の糸口を掴むことができればと期待するところです。
●基本は、一本の線の傾きの触認知から
触って感じるセンサーに相当する研究はある程度進められてはいます。
しかし視覚障害者が、感じ取ってからそれをどのようにしてイメージングし、イメージ情報として処理しているのか、ということの研究がほとんどなされていません。
例えば、1本の傾斜を持った線を認知する場合、どの程度の長さと傾斜角度が認知限界であるか。このような基礎データがあれば、触図や似顔絵の最小限の大きさを決めるのに参考にできます。
▲持参した実験例の資料
a.傾きが −5度、0度、+5度 傾斜したICテープ線を、それぞれ長さ 10cm、5cm、2.5cm のものを ページを変えて作成。
各ページでは、たての中心線に対して、3cm離して左右対象に作っている。
これを、右手だけ使って傾きの判断、両手同時に使っての判断など、触知体験して頂きました。
[5度の傾きは、例えば10cmの長さでは水平から約9mmのずれ。この認知はかなり難しいように思われるが、前もって言われていることもあって、小原・OS・SKは、手を速く動かすことで、中心の垂直線との比較で識別できた。]
このような実験によって、正面向きの人の眉毛の長さや眉毛の傾きなどの基本データを集めることができると考えられます。
横向き人物画の場合は、図が非対称なので、触知の難易度が増してきます。
b.自作した人物の顔(20cm×15cm)の木彫レリーフと、それをモデルに、製図用ICテープで同じ顔を描いたものを用意しました。
似顔絵や肖像画は正面向きは少なく、大多数がやや横向きのポーズです。持参したレリーフは、このポーズを触知練習する格好の見本です。
それぞれ、顔の中心線を、ICテープで示してあったので、それを基準に左右の目や眉の違いも触知してもらえたようです。基準線が、重要になることを発見しました。
c.にぎりこぶし大の、笑っている人物の頭部の立体彫刻(自作)も触知体験して頂きました。
このサイズだと、[TKさんのように]顔の表情まで認知できる方と、[小原のように]ほおが標準でない形状になっていることまで察知されたが、笑っている表情には認知されなかった方もおられました。
d.ホワイトボード上に貼り付ける厚さ1mmのゴム板磁石[マグネットシート]で、眉毛、目、鼻、口を作って、福笑い遊びできる仕掛けも準備しました。
[私は残念ながら触ってはいませんが、その他の見えない人たちの感想からも、これは典型的な表情の〈学習〉には有効な方法のようだ。]
今回は、そのネライや、扱い方、データの取り方などの説明は行なわず、自由に体験してもらっただけですが、結構人気がありました。
いろいろな実験資料を準備すれば、皆さんの率直な意見が即座に返ってきて、大変有益なデータ資料が得られることが、わかりました。
▲次回の触知資料の予定作品
・奥行きや高さ表現を触知する試み
・間に合えば、簡易型の日本近海の立体海底触地形図 [7月末に試作品完成]
(太田さんの文章終わり)
〔論点〕
OB:顔の細かい形が分かっても、それは具体的な表情とは結びつかない。形が分かったからといって、それが表情の理解に結びつくとはかぎらない。
OT:表情も共有された文化の一つ。それに見えない人たちも少しでも入れないかと思っている。
OB:形が分かってきても、それから何が読み取れるか、それが何を意味しているかが難しい。
OT:いろいろなパターンを触ってもらっていって、その触ったイメージを獲得して行かないと無理かもしれない。
SK(感想のメール):
横顔のレリーフはすごく分かりやすかったです。レリーフを触ってから平面の図を触ると、理解しやすくなりました。良いアイデアだと思います。
ただ、人物画については、表情や顔の特徴など、理解するのは、かなり難しいと思います。顔の表情は触ることができないので、実感としてわかないし、しっくりとこないのです。
◆報告2
触覚アート・プロジェクト (牛島 大悟)
※牛島さんは、東京芸術大学先端芸術表現科の2年生。 6月末から7月初めにかけて、関西方面に古美術研修旅行にいらしていて、お忙しいなか今回参加していただきました。(以下、牛島さんの文章)
東京芸術大学「触覚アートプロジェクト」は2003年1月にたちあげました。
メインコンセプトは「触覚という我々の日常生活に密接に関係した感覚器官、感覚世界に表現、アートの視点から光をあて、あらたな領域を開く」です。
なかでも、私たちが重点をおいているものに「コミュニケーション」があります。
例えば、昨年12月には、全学生出品展覧会「創作展」にて目の見えない方々を対象に鑑賞ツアーを行いました。芸術大学ならではの工夫として、触って楽しむアート作品はもちろんのこと、制作者本人が作品の説明をする、清作前の素材から触ることが出来るなど、準備をして参加者をお招きしました。
他にも、ピンディスプレイやスピーカーの振動など最新技術を使ったメディア・アート作品の制作や、横須賀の特殊教育総合研究所(大内進先生)と共同プロジェクトである「さわる絵本をつくる」などを行っております。
現在は来年はじめに松下電器との共催で開催する予定の展覧会準備を行っております。
“アート”と“さわる”の関係は、現在まで多くの方々が活動されてきました。美術館や博物館では「さわれる展覧会」を開催するなどの成果をあげています。芸術大学でさわることを考える場が生まれたことも一つの成果と言えるでしょう。
アーティストの卵である芸術大学生が、アートを学びながら多様な表現、鑑賞方法を広げていくことを目指して活動していきます。
東京芸術大学「触覚アートプロジェクト」
代表:古川聖(先端芸術表現科助教授・現代音楽作曲家)
リーダー:牛島大悟(先端芸術表現科2年)
他、学生メンバー10名
○お問い合せ先
東京芸術大学取手キャンパス〒302-0001茨城県取手市小文間5000番地
電話:0297-73-9157 内線:7385(古川研究室)
◆報告3
触覚の基礎編 (MR)
[今回のメインテーマ。 MRさんは、視覚障害者のためのリハビリテーション施設の職員]
●前置き
近年日本人の身体性の欠如が指摘され、からだを見直そうという考え方がいろいろな方面で復活してきている。またバーチャルリアリティの世界では、視覚、聴覚、振動など実際にあるかのようなリアルな体験ができる。しかし最後の感覚 触覚が決定的に欠落している。そのため触覚に対する研究に注目が集まっている。
たとえば、飛行機のパイロットのベスト。視覚に頼ることによる錯誤の危険性を減少させるために、触覚を利用したベストを着用して、上下や左右を体感する。あるいはパソコンのマウスに重さやなめらかさ、ざらつきなどの触覚を感じるようにするなど。
また今回発表するにあたって、図書館で触覚に関する本を見てみたところ、1920〜30年に発行されている古い本の復刻版がいくつか出ているのに驚いた。どうやら今また触覚研究というのは現在非常にレアな研究のようである。
●その1.手の進化について
哺乳類は四肢によって前進運動を行うが、人間は直立二本足歩行になり、前足が環境作動器となった。そして森の中で生活することで、ものをつかめるようになったことが、手の運動の決定的な本命となった。
ヒトだけが道具を使うというわけではなく、猿も道具を使うという報告がある。最近では、マーモセットモンキーがパンを水に放り込んで、集まってくる魚を捕っている映像がテレビニュースで取り上げられていた。
では、猿と人間の道具の使い方に差があるのか?人間は「道具をつくる道具―工具」を作る。また、複合の道具をつくる、道具を保存する、他人のために道具をつくることができると言える。人間は、ある環境におかれた場合、自分の体もしくは全体の延長としてほかの物体を使用する―つまり道具を使用する。ナイフは爪や牙の延長、靴は足の裏の延長と考えられる。
●その2.「感覚」「触覚」の意味
日本語の言葉の意味に関して、私たちが普段使っている「触覚」「感覚」という言葉の意味を辞書で調べてみた。
『角川国語辞典』
感覚 @〔哲〕五感のはたらきで生じる、外界についての意識内容。
A〔生〕感覚器官の受けた刺激が、神経系のはたらきで大脳に伝えられる働き。
B感受性、センス
触覚:皮膚がものに触れたときに起こる感覚、触感。
触感:触覚に同じ
『岩波国語辞典』
感覚 @目・耳・鼻・舌などでとらえられた外部の刺激が、脳の中枢に達して起こる意識の現象。
Aものごとのとらえ方・感じ方。
触覚:外のものに触れることによって生物体に起こる感覚。
知覚:感覚器官を通じて、外界の事物を見分け、とらえるはたらき。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚など。
『三省堂現代国語辞典』
感覚 @目・耳・鼻・舌・皮膚で外部の刺激を感じ取る働き。
Aものごとを感じとる、心の働き。
触覚:手足や皮膚がものに触れたときの感覚。五感の一つ。
心 :感じたり思ったり判断したりするはたらき(のもとになっているもの)
知覚:見る・聞く・触るなどの感覚器官を通じてものごとを知り、また区別すること。
『三省堂デイリーコンサイス英和・和英辞典』
感覚:sense、sensation
触覚: the sense of touch
知覚:perception
●その3.感覚 ・ 知覚 ・ 認知の心理学的定義について
日常の中ではよく似た使い方をされるが、心理学では「感覚」「知覚」「認知」という言葉はそれぞれ違った意味で用いられる。
一般に感覚(Sensation)は、受容器から求心性神経(脳に向かう神経←→遠心性)を経て感覚中枢に至る感覚系の興奮によって規定される過程。
音が聞こえたか聞こえないかといった経験に対応する。
これに対して、過去の経験を含む、より複雑で総合的な過程を知覚といい、どんな音に聞こえるか、誰の声か、といった判断に対応する。
また、記憶系や思考・言語などの機能と密接に関連するより高次の過程を認知という。
感覚の分類法
本によっていろいろ異なるので代表的なものを紹介。
以前は五感と言われ、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に分けられていた。
現在は8つに分類されることが多い。
1.視覚・聴覚・嗅覚・味覚
2.皮膚感覚(触覚・圧覚・温覚・冷覚・痛覚)
3.運動感覚
4.内臓感覚
5.平衡感覚
皮膚感覚・運動感覚・内臓感覚をまとめて 「体性感覚」 という。
体性感覚は代替えできないものであり、生存上欠かすことのできないものである。
体性感覚のうち、運動感覚と内臓感覚を 深部感覚(固有感覚) という。
一般的に体性感覚は脱落しにくい感覚である。視覚や聴覚が脱落していることはあっても、触覚[体性感覚]が全面的に脱落した人を想像するのは難しい。
味覚と嗅覚をあわせて科学的感覚という。
また別の分類として、同時に認知できる範囲によって二つに分けられる。
1.即時的把握―視覚
2.継時的把握―触覚
その他、情報発生源と人間の位置関係による分類について。
1.遠隔感覚―視覚・聴覚・嗅覚
2.接触感覚―味覚・触覚
※蝶が見ている世界と人間が見ている世界は、別の世界でありながらも同じ世界である。同じようなことは人間同士にも言えて、感覚で大事なことは、それぞれの個体の独自性、個々に違うということ。
●その4.生理学的な触覚について
皮膚の表面の感覚受容器で発生した触覚・圧覚の信号は、脊髄をあがって一度中継されたあと、視床に入り、ここで再び中継されて、大脳皮質の体性感覚野に伝えられる。
この経路は延髄から視床に至る途中で交差しており、刺激を感じた皮膚とは反対側の大脳に信号が伝わる仕組みになっている。
体性感覚野は、脳の上の方、中心溝という溝の後部にあたる。
皮膚全体が触覚のための感覚器官だといえるが、その意味では皮膚は体の中で一番大きな器官であるということになる。平均的な成人の皮膚面積はおよそ、1.8平方メートル。そこに密度のばらつきがあるが、温点、痛点、冷点、圧点という基本的な感覚の刺激センサーが分布している。
触覚の中で動物にとってもっとも重要な機能は、痛覚だといえる。生存に関わるような皮膚刺激、大出血のけが、などに際して脳への緊急の危険信号を発する役割をもっている。痛覚が大切なのは、痛みを感じる受容器が、他の感覚の受容器とことなり、痛みに対する刺激に対してほとんど順応しないことからもわかる。つまり、刺激に慣れることなく、生体防御のためにいつまでも脳に信号を送り続けるのである。ちなみに他の感覚刺激も、あるレベルを超えると痛覚を招くことが知られている。
通常は触覚と圧覚は別々に取り扱われることが多いが、触覚と圧覚の境界は明確ではないし、触受容器のレベルでは分離することが難しいので、本稿では触覚と圧覚を併せて「触覚」と呼ぶ。
触覚の役割は、皮膚に何かが接触していることを知ることであり、また、そのような触的印象から、対象の形態や表面の状態の特性を知ることである。さらに性的な感覚も触覚の一種として考えられるが、この感覚なしには人類は存続できなかった。触覚はわれわれの体のどの部分でも感じることができる。
触覚と圧覚について
手の指先で指紋のある皮膚領域では、その場所をわずか1ミクロン(1/1000ミリ)だけ垂直に凹ますような圧迫でも感じ取ることができる。
この時、マイスナー触覚小体と呼ばれる特別な週末装置を形成している第一次ニューロンがわずかな圧迫をとらえて脳へ信号として送っている。
同じく手の指先や指腹、掌に多いパッチーニ層板小体(触覚ではなく、圧覚や振動覚の検出器とされるもの)は皮下組織の脂肪の中に埋め込まれている。パッチーニ層板小体はさらに胃や腸など、腹部内臓にも分布している。
●その5.脳と触覚
感覚や知覚の判断を下しているのは大脳皮質だが、それを感じている場所として知覚されるのは、その大脳皮質が対応している(その部分の神経が投射している)末梢部分である。痛みは脳で感じるのではなく抹消で感じる。これを感覚投射という。全身に同じ密度で分布しているのではなく、一般的に、よく使う指先や唇は感じやすく、足の甲、背中などのは、感じにくく鈍感である。
大脳皮質を細胞構築学的な差によって系統的に分類したドイツのブロードマンによると、大脳皮質の中心溝の後部に、体性感覚野と呼ばれる、体の各部分に対応して感じる場所があるとされる。中心溝とは左右の大脳半球を横切る大きな溝である。
脳の視覚野の配線ができあがるとされる生後数ヶ月の間に全く刺激が入らなかった場合、いくら目が見えるような手術をしても最終的には見えるようにはならない、というのが現在の常識だそうである。脳の視覚情報処理の仕組みができないからである。
脳の中で触覚と視覚は別々に処理される。触覚は、脳の中心溝と呼ばれる大きな溝のすぐ後ろの部分で情報処理される。
カナダの脳外科医、ペンフィールドによって、今から40年あまり前に描かれた体性感覚野(触覚のこと)の図はあまりに有名である。手、指や唇[=触覚が鋭敏な部分]が閉めている領域が多いことが一目でわかる。これは実際にペンフィールドがてんかんの手術の際に、患者の脳を直接電気刺激して、どこが反応するか確認して表した図である。
手の親指、人さし指、小指が触覚の情報を受ける脳の場所は人によって異なり、脳の表面に地図で描いてみると指の並んでいる順も違うという。
最近のサルの研究では、指を一本失ってしまったサルの触覚の地図を見てみると、失った指の触覚を感じていた部分が他の指の触覚を感じる部分に変化しており、そこが広がっていた、という報告がある。
全盲の人の視覚野が活動していることを表すPET[陽電子放射断層撮影]画像もある。失明して数十日しかたっていない全盲の人の視覚野は活動がなかったが、60年ちかくに及ぶ人の視覚野は活動があったという興味深い報告である。
これは視覚野が「見る」こと以外に使われている可能性を示唆している。脳はおそらく使われ方の違いから、かなり個人差があるだろうことが想像されるのである。
●その6.感覚の統合
ものをつかむと空間的、質感的な触覚情報が得られる。さらにあちこち手を動かしてより多くの情報を集め、それらを統合して判断する。したがって、触覚と手を動かす運動系との連合が重要である。そのため、大脳皮質の感覚野のすぐ前に運動野があって密接な連絡を取り合っており、視覚情報を介さなくても直接やり取りができるようになっている。
まず見ることによって触る準備をし、さらに実際に動かすときは触覚情報をフィードバックしながら手や指の複雑な作業をこなしていくのである。
視覚、触覚、聴覚といった、いわゆる人間の五感は、すべて別々に情報処理される。
目、耳のように感覚器もことなれば、それを分析する大脳新皮質のエリアも異なる。
そとの世界をある一つのものとしてとらえるには、見た世界と触れた世界、聞こえる世界が一つに合わさらなくてはならない。
シマフクロウのプリズムめがねの実験[プリズムめがねで視覚場を右・左にずらすと、聴覚情報によるマップが視覚情報によるずれたマップに合うように変化する]では、視覚より聴覚が優位にたつことを証明している。また、[ストラットンなどによる]逆さめがねの実験では、視覚情報が逆さになった世界を手で触って確かめて、見たものと触れたものを一致させようとすることで、世界が正立したものになるという。触って確かめることをしないと世界は逆さまのままである。
逆さめがねをかけて不自由がなくなるということは、触覚の世界に合わせて、視覚の世界がひっくりかえったといえる。
私たちの感覚はばらばらの情報を脳の中でつじつまを合わせているが、聴覚よりも視覚が優位であり、視覚よりも触覚の方が優位であると考えられる。
大脳新皮質の側頭葉にある大きなしわ、上側頭溝から、視覚と聴覚、視覚と触覚に反応するニューロンが見つかっている。
※現代は触覚という感覚をあまり重視せず、触って確かめるということをしなくなったので、私たちの生活は視覚に振り回されているのかもしれない。
●その7.健康な心と体を育てる触覚
乳児・幼児の心の成長に、触覚の果たす役割は想像以上に大きい。母親や友達とも肉体的な接触によって、心と体の成長が促進される。
ハーローのアカゲザルの実験―生後間もないアカゲザルの赤ん坊に、針金のミルクを持った母親の人形と柔らかい布でできた人形を代理母として育てた実験。
赤ん坊は暖かみのある布の母にしがみつく時間が長く、不安を感じると布の母にしがみつく。ハーローはサルも乳児期のある時期に母親や仲間との接触によって社会的な絆をつくり、正常な社会行動を身につけていくのだと考えた。
すべての感覚は刺激されて発達していく。多くの哺乳類の子供は生まれてすぐ、母親になめられるが、そうした身体的な接触を経て、健康な個体になっていく。ネズミの実験でも、親との接触を経験した子供は、免疫系もすぐれ、体重の増加も早い。
こうした研究の最近20年ほどの伸展により、霊長類、とくに人間にとって、触覚を通した社会的なつながりや絆の形成は、心身の正常な発達にとって重要な意味を持つことが明らかになってきている。
●その8.「みんなにめちゃめちゃ触られたい!!」―触覚から始まるアート
職場の施設の修了生に芸大の学生さんがおられて、彼女は在学中に見えなくなり施設に入所して、最近復学された。彼女の専門は平面であったが、見えなくなってから立体造形に変更し、彼女が大好きという金属を使って創作されている。
この間、錫を細長く切ったものを、ライトハウスで習ったかご編みの手法を使って創作したものを持参してくれた。彼女の作品を、あるNPOのサロンルームのような場所に飾ってもらいたいという話をしていたときに、飾る場所がガラスケースの中だったのだが、彼女は「そんなとこに入れて欲しくない。私の作品はみんなにめちゃめちゃ触られたいねん。」と言った。
そのとき私は、これが触覚から始まるアートなんだと感じた。触覚で創作された作品は触覚で鑑賞されることを望む。視覚で創作された平面を触覚に翻訳することだけでなく、触覚から発するアートをもっと自由に生み出したい。それは視覚障害者に限らず、晴眼者もともに参加できるものであって良いと思う。
●最後に
ハイテクという言葉が氾濫する現代社会で、よく見てみるとハイテク機器を作り上げているものの中に熟練技術者の「技」がしっかりと生きている。神業とも言える技術者たちはミクロン単位の作業をこなしているのである。
また、てんぷら屋さんが、高温の油に指を入れて温度をみるとか、お弁当屋さんが同じグラム数のご飯をきっちりと入れることができたり、あたりまえのように行われている作業でも、実はとてつもなく高度な手作業であったりするのである。
※その他の例:鮨職人の握った鮨のご飯粒の数にはほとんど差がない。
※鍼灸では、触覚を鍛えなければならない。机の上に百円玉を置き、その上に8枚に折ったバスタオルを置いて、その上から百円玉がどこにあるかを触って探す練習。血管をまるく感じるようになり、奥のほうにある血管も慣れると分かり、目で見て分からない動脈瘤が触って分かる。東洋医学は、五感で得られた情報で組立てた医学、それに比べて西洋医学は視覚の医学。鍼灸は触覚の医学とも言えるが、触覚を言語化するとか、触覚をうまくだれかに教えるといったことには難しい部分がある。これからは、こういうこともきちんと研究される段階に来ていると思う。
触覚というものはそれほどに、超人的な未来性のあるものであるにも関わらず、幼少時における経験やトレーニングの不足によっては、上手に手を使うことができなくなる。そのためにも、子供の頃から触覚を十分に使える環境を与えること、特に視覚障害児においてはその経験を保証することが重要となると考える。
※先天性の視覚障害者を見ていて、点字が読めることと、物をうまく触われる、指をうまく使えるということとは、まったく別のことだということに気が付いた。点字は、指の先端ではなく、指のやや腹の所で読んでいるが、指先を使って物をうまく扱えない人がいる。また、手を適当に動かしているだけで、全体的に触われない人がいる。手は素晴らしい可能性のあるものであるにもかかわらず、子供のころの触る体験の欠落のために、上手に触ることができなくなってしまう、ということを職場で痛感している。
以下、「触覚研究会」の今後のテーマに関係すると思われること。
何でさわるの? どこでさわる? どうやってさわる?どこからさわる?
さわってわかること さわるために必要なこと
さわるとどうなる? さわる時のマナーは?
上記の中で、触るということと、見るということの大きな違いは、視覚では物質が変化しないということ。触ることで、ものは汚れ、変容し、壊れる。陶磁器やブロンズ像など、触ることや経年変化によって成長するものもある。
触覚を考える上で、視覚障害者だけが触るのではなく、すべての人が触るということも視野に入れて考える必要がある。その場合、触ることで変質、汚れ、破壊されていくものをどう考えていくか。それもまた触覚を考える際に、避けては通れない問題である。
●参考図書一覧
『NHKサイエンススペシャル 驚異の宇宙・人体U 脳と心』 NHK取材班 1993
『感覚の地図帳』 山内昭雄・鮎川武二著 講談社 2001
『野口体操 感覚こそ力』 羽鳥操(はとりみさお) 春秋社
『治療家の手の作り方―反応論・触診学試論』 形井秀一(かたいしゅういち)(筑波技術短期大学教授) 六然社 2001
『手のうごきと脳のはたらき』 香原志勢(こうはらゆきなり)(立教大学名誉教授、人類学者) 1995 築地書館株式会社
『ローテクの最先端は実はハイテクよりずっとスゴいんです。』 赤池学(あかいけまなぶ) ウエッジ 20000
『皮膚へ 傷つきやすさについて』 鷲田清一(わしだきよかず) 思潮社 1999
『触覚と痛み』 東山篤規・宮岡徹・谷口俊治・佐藤愛子 著 ブレーン出版 2000
『手と精神』 ジャン・ブラン著 法政大学出版局 1990
『皮膚―自我』 ディディエ・アンジュー著 言叢社 2003
『触覚の世界』ダーヴィッド・カッツ著 新曜社 2003 [原著は1924年]
(MRさんの文章終わり)
〔論点〕
OB: 一般には諸感覚の中での視覚の優位が言われているが、逆さめがねを例に、視覚にたいする触覚[自己受容感覚]の優位について語られていたのがとても印象的だった。以前いろいろな錯視図形を点図に描いてもらって触ったことがあるが、[一部の図形については、頭の中のイメージでは錯視のようになることは理解できるものもあったが]多くは錯覚のないそのままの形として触知できた。だから、触覚によって錯視をなくすことが可能なのかも……
MR:視覚はだませても、触覚はだませない。
OB:少し横長の長方形は視覚では正方形に見えることもあるようだが、触覚ではその気になればすぐ正方形でないことが分かる(実際に簡単に指で測るから)。そういう意味では触覚は確実。
SK(感想のメール):物を触ることと運動感覚や平行感覚とが密接に関係しているという話しは、新鮮でした。子供のころの遊びや経験が大事なんですね。視覚障害者のばあい周りの人の動きは見えないので、経験したことしか身に付かないのですね。
OS:統合教育が普及するなかで、子供たちの中には勉強にばかり追われて、勉強以外の身辺のことなどをお母さんにやってもらう場合も多いようで、そういう人は社会に出て見える人たちといっしょに生活するようになってしばしばトラブルを起こしたりもする例がある。そういう意味で、子供のころからの体験、日常的な生活を身に付けることの大切さを改めて思った。このようなことに気付いてもらえるよう、より多くの人たちに話してほしい。
OB:私は、自分の知らない、見える人たちの見える世界につい好奇心を持ってしまう。でも、よく考えてみると、物を理解するという点でいえば、見えることはそんなにたいしたことではないとも思っている。少くとも立体の物については、触って理解することに私はぜんぜん不自由を感じない(色などはもちろん別だが)。立体を平面に表現するのは視覚のためのやり方で、それは理解するのは難しいが、それは触覚の問題ではない。今は技術的に[またスペースや持ち運びのために]図と言えば平面のものがほとんどだから問題なのであって、原理的に言えば、立体の図をそのまま描ければ、また拡大・縮小が自由にできれば、それで触覚による理解のためには十分だ。技術は視覚中心だし、実物からの変換も視覚中心の変換だし、そしてそういう社会で生きるしかない訳だし、だから困ってしまうことになる。ただ、アートの世界は、そういう普通の社会での枠をはずしやすい世界だと思う。アートの場合は、いろんな見方を新しく自由に作っていける世界だから、そういう点ではとても可能性があるように思う。
基本的な所までさかのぼると、見えないことは[それなりの環境把握の仕方・適応の仕方があるので]そんなに大したことでもないような気がする。問題なのは、小さい時からのいろいろな体験、とくに意図的に触覚や身体感覚を発達させるような環境が少ない、教育がなされていないということ。
MR(メール):私の言いたかったことは、視覚をすべて触覚に翻訳することには限界がある。視覚情報をできるだけ視覚障害者にわかるように工夫することには意義があるけれども、それには限界がある。視覚と触覚、それぞれの特性を考えた時、視覚と触覚の交わりと交わらないところがあって良いのではないかと思う。だからこそ、「触覚から発するアート」ということを私が最後に提唱したわけです。
OT:触覚の研究では、センサーとしての触覚の研究は多いが、そこから得られた情報をいかに取り込み、どのようにイメージ化していくのか、という部分が重要だ。触覚から得られる物的イメージだけでなく、人格や言葉や風景などいろいろなイメージがある。そういう文化的なものも何とか伝えられないのかと思っている。
TK:私の場合、触るときは指先がメインで、指先の爪が伸びると感覚が鈍る。また、実際に点字を読むのは人差指なのに、小指や薬指をちょっと傷付けただけでも、スピードが落ちる。触覚には「手の環境」も大切。
MR:感覚にはその人固有のことがひじょうに多い。また、健康の感覚、身体が気持ちよいといった感覚も大切。
[その他、洋服選びのとき最後は触って確認して買っているとか、イメージや文化について、また触感やイメージの表現についてなど、いろいろありましたが、省略させていただきます。]
◆次回の予定
第3回例会は今のところ9月の第1土曜日(9月6日)を予定。
テーマは、「触る報告会」のようなもの。
数名に触る物を用意してもらい、見える人・見えない人同じ条件で、それぞれの触り方、触った感じなどを報告してもらう。
(2003年7月28日)