梯梧の花咲く時――沖縄戦に散った乙女たちの悲話

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●目次

卒団公演を観る

沖縄戦の特徴

白梅隊を中心とした沖縄戦年譜

主な参考図書とURL

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●卒団公演を観る

 3月 28日、大阪放送児童劇団の卒団公演を観ました。

 私の楽しみの一つは、舞台での劇を観ることです。

 高校3年生の時、きっかけは忘れましたが、労演の会員になりました。当時はたしか、高校生の会費は毎月千円くらいだったと思います。今も記憶に残っているのは、文学座や民芸等のきわめて完成度の高い劇、たとえば、ハムレット、桜の園、石の花、蟹工船、グスコーブドリの伝記など、古典的な劇です。会場は主に青森市民会館で、設備はあまり良くなかったと思いますが、安い会費でとても良質の劇を観ることができたのです。

 私はいつも、前から2、3列目の真中の席を確保してもらいました。そうすると、役者の動きはもちろん、声も、たんなる台詞としてだけではなく、感情さらには身体そのもののうったえとして聴くことができ、テレビなどで劇をみるのとはまるで違って、大いに感動し楽しむことができます。

 その後、会費を払ってもいろいろな事情で実際の公演を観られないことが多くなり、労演は2年あまりで退会してしまいました。舞台劇を観る機会はほとんどなくなりました。

 私の娘は、7年前、小学2年生の時大阪児童劇団に入団し、この3月で卒団することになりました。小学校に入る前から、劇をしたい、と言っていたのですが、とくに具体的には考えていませんでした。ところが、私がたまたまNHKラジオのお知らせの時間を聞いていたら、大阪放送児童劇団が新2年生を対象に団員の簿集をしているとの放送がありました。早速子供にきいてみると、児童劇団に入りたいということで、入団テストを受けることになり、思いがけず合格していました。それから7年間、阪神大震災、劇団の運営体制・講師陣の一新、試演会など、本当にいろいろなことがありました。またいろいろな事情で当初は 60数名だった同学年生も卒団時にはわずか 15名になりました。

 卒団公演の題は、「梯梧の花咲く時――沖縄戦に散った乙女たちの悲話」でした。私は、タイトルにある「梯梧(デイゴ)」についても、またそのテーマである「白梅隊」についてもまったく知りませんでした。

 梯梧は、広辞苑によれば、マメ科の高木で「早春から初夏に赤色の大きな蝶形花を多数、密に総状花序につけ美しい」ということです。娘によれば、梯梧は沖縄ではよく見かけられ、県花になっているそうです。劇中でも「梯梧の花咲く……」と繰り返し歌われていました。

 白梅隊は、沖縄戦において、県立第二高女の4年生により編成された学徒隊で、ひめゆり部隊と同じく、陸軍野戦病院で傷病兵の看護に当りました。女子学徒隊と言えば、ひめゆり部隊があまりにも有名ですが、白梅隊のほか、なごらん、瑞泉、積徳、でいごの各学徒隊が編成されています。

 児童劇団がこのような重いテーマに取り組むのは……と思っていましたが、卒団公演で主役となる中2の団員は、1月5日から7日に、沖縄に研修旅行に行きました。白梅の塔をはじめ、南部戦跡を訪ねたほか、白梅隊員で今も生きておられる中山きくさん(白梅同窓会副会長)や先山さん(ガラビ壕で重傷者を〈処理〉している現場を目撃した人です)等5人と会い、話しを聴き、案内してもらったそうです。娘はそれなりに事実を受け止め、その後の練習にも熱がはいったようです。

 公演は昼と夕方の2回あり、いずれも客席はほぼ満席でした。たしかに児童劇団であるがゆえの制約(14歳までの子供が、父・母・軍曹・おばあさん等の役をしなければならず、深みのある演技は期待しにくい)はありますが、その範囲内で最高の、大げさではなく本当に最高の出来映えでした。

 この劇のメッセージは、劇の最初と最後に歌われる 「知ってほしい 戦争の空しさはかなさ 国の為、世界平和の為 大義の為 まことしやかに理屈をつけ 死んで行くのは罪も無い人 何故何の為に人と人とが憎しみ合う 人と人とが頼り合い 愛し合うものなのに 何故何の為に 知ってほしい 戦争の空しさはかなさ」 に示されています。でも、そういう理屈は抜きにして、惨さや悲しみを身体全体で一生懸命うったえようとしているのをひしひしと感じました。娘は上原はる子役でしたが、仲間の隊員に青酸カリを配って行く場面では会場が静まり返りました。

 また、劇中には、年輩の沖縄の人が抱く日本人への不信、沖縄の言葉しか話せないがゆえにスパイ視される兵隊、ほんの一時でも病院壕に避難させてもらえず追い返されて砲弾で即死する住民、何のために死にまたどのように生き得るのかを問いつつ、体当り攻撃して死んでいく少年なども描かれていました。この劇は、白梅隊の悲惨な最期だけでなく、沖縄戦全体の性格についてもある程度伝え得ているように思いました。

 今回は私も劇を観るにあたって、沖縄のこと、沖縄戦のことを勉強させてもらいました。以下、そのお勉強の結果を「沖縄戦の特徴」と「白梅隊を中心とした沖縄戦年譜」の2つにまとめて書いてみます。

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●沖縄戦の特徴

 大城将保は『改訂版沖縄戦』で、沖縄戦の特徴として次の5つを挙げている。

 ・長い激しい国内地上戦: 本土決戦のための時間かせぎの方針の下、徹底した持久戦法により、日米の圧倒的な戦力差にもかかわらず、3ヶ月余の長期戦になった

 ・現地持久の総導員作戦: 防衛隊・義勇隊・学徒隊などの名目で住民の根こそぎ動員が行われ、本土決戦における総動員体制の手本ともされた

 ・軍民混在の戦場: 軍からみれば、戦場における住民は、戦力ないし戦闘協力者として利用できる反面、作戦を阻害しときには背信的行為を犯す存在でもあり、とくに形勢が不利になると、後者の見方が著わになり、残虐行為が横行した

 ・正規軍人を上回る住民犠牲

 ・米軍占領の長期化: 米軍は沖縄作戦の当初から、沖縄を本土から分離し軍政下に置くために、多方面にわたる周到な準備をしていた

 私は、これらに加えて、さらに次の点を付記したいと思います。

@沖縄人への蔑視
 軍は当初から沖縄の人たちを、2級のあるいは劣等な国民・皇民と視ていました。徴兵制(1898年)をはじめ各種制度の実施が他県より大幅に遅れ、言葉をはじめ多くの異質な旧慣が残り、「民度が低く忠誠心が乏しい」というのが一般的な評価でした。戦争とか軍隊になじみのない県民は兵役を嫌い、多くの者が移民に出ました(この点は、東北の貧しい農民とは対照的です)。要するに、天皇制国家にあって、沖縄県民は2級の国民としか見られず、〈まともな〉日本人として扱われなかったのです。そのため、戦力として過酷に利用し尽す反面、いつもその忠誠心を疑われ、都合が悪くなれば容赦なく排除され切り捨てられたのです。

A惨めな朝鮮人
 当時沖縄には、徴用による軍夫、土建業者に連れて来られた労務者など、推計1万人以上の朝鮮人がいました。彼らは乏しい水や食料で家畜のごとく働かされました。戦場ではもっとも危険な場所に放置されたり、あるいは、スパイ嫌疑、食料統制違反、脱走や投降を口実に、しばしば住民や兵士への見せしめとして、虐殺されました。また、少くとも数百人の朝鮮人慰安婦が軍隊と行動を共にさせられました。戦局が不利になると戦場に置き去りにされ、中には戦後米軍にそのまま利用された者もいたとのことです。その生死もふくめ、彼らの運命についてはほとんど判っていないようです。日本軍にはもちろん、沖縄の人にも差別され無視された彼らこそ、沖縄戦における最大の被害者だとも言えます。

B米軍に問題は無かったのか
 沖縄戦では、「米兵よりも日本兵のほうが怖かった」と言うのが住民の大方の証言です。だからといって、米軍の行動がすべて正当だったとは言えません。住民の証言には、自分たちを守ってくれると信じて協力をおしまなかった友軍に裏切られてしまったという感情もはたらいていると思います。実際には、収容所に入っている住民に弾薬の運搬や道路工事などの強制労働を課したり、彼らから強制的に採血したりしました。さらに、表立って語られることは少いですが、米軍による婦女暴行・強姦は各地で多発したようです。もちろん日本軍は中国や東南アジアでそれ以上の事をしたのですが、勝者の蛮行はしばしば見えにくくなります。

 最後に、沖縄戦において学徒隊が何故これほどまでに注目されるのかについて考えてみます。

 女子学徒の場合、清純な若き乙女の悲話という感傷も多いにはたらいていると思われます。しかし、その根底には、本土および沖縄双方からの学徒隊にたいする思い入れがあるようです。

 とくに徹底した皇民化教育を受けた彼ら・彼女らこそ、当時の軍にとって、またおそらくは戦後の遺族会や戦前の軍国主義的価値に親近感を持つ勢力にとっても、まさに皇民、天皇の〈赤子』を体現した人たちだと言えます。軍の命に誠心誠意尽し、「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」という戦陣訓の通り捕虜になることを潔しとせず、しばしば自ら命を断ちました。

 沖縄の側からみると、二つの面が亞るように思います。彼ら・彼女らの軍への無私の協力は、結局は日本軍に裏切られてしまったという住民の大方の思いをさらに補強するようにはたらいたでしょう。また、より現実的な理由として、本来軍人・軍族を対象とする援護法をできるだけ多くの民間人にも適用させようとする運動があります。彼ら・彼女らの、ただひたすら国を思っての軍への協力・勇戦敢闘ぶりは、このような運動に有力な根拠を与えることになったはずです。

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●白梅隊を中心とした沖縄戦年譜

 (※は白梅隊関係の事項です。白梅隊関係の事項については、公演の当日配布されたプログラム中にあった資料に依っています)

1944(昭和19)年

 3月22日、本土決戦の防備ラインとして南西諸島を守備するため、第32軍創設。同年7月から9月にかけて、実践部隊が続々と沖縄諸島へ移駐。航空基地建設や全島要塞化のため、県民男女を徴用し突貫工事を行う

 7月、政府は、沖縄県から本土へ8万人、台湾へ2万人の疎開計画を緊急決定(翌年3月上旬までに、本土へ6万人、台湾へ2万人疎開)

 8月22日、沖縄から九州へ向かった疎開船「対馬丸」が、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、学童758人を含む約1500人が死亡

 10月10日、沖縄各地に大空襲、旧那覇市街 90%焼失、守備軍の施設・戦力も甚大な被害を被る

 12月5日、第32軍中最精鋭の第9師団(武部隊)が台湾へ移動

1945(昭和20)年

 ※2月、県立第二高女の稲福全栄校長は軍司令部より、生徒に従軍補助看護婦として看護教育をうけさせるように、との要請を受ける

 ※3月6日、県立第二高女4年生54名は、東風平(コチンダ)国民学校在第24師団第一野戦病院(山3486カド岡隊)衛生看護教育隊に、軍属として正式入隊する。○引率 金城宏吉、与那覇政男両先生

 ※3月18日、白梅隊に外出許可され、それぞれ家族と数時間を過ごし、帰隊する

 3月23日、米艦隊沖縄本島攻撃(沖縄戦開始)

 ※同日、白梅隊は、艦砲射撃を避けて、東風平国民学校裏手の壕に避難

 ※同日、軍の許可が得られず、予定されていた卒業式を中止

 3月24日、米軍の南部への艦砲射撃激化

 ※同日、白梅隊は壕内で急拠注射の実施訓練を受ける

 ※同日、教育隊終了となり、東風平村(現東風平町)富盛(トモリ)八重瀬岳(ヤエセダケ)在第24師団第一野戦病院に配置され傷病兵看護の任務に就く。○引率 与那覇政男先生  3月25日、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校生により、「ひめゆり学徒隊」が編成され南風原(ハエバル)陸軍病院に入隊(計 222名中、123名戦死)

 ※3月25日、金城・与那覇両先生は、白梅隊引率の任を解かれる。白梅隊員2名除隊を命ぜられ帰宅  3月26日、米軍慶良間諸島に上陸、31日占領。渡嘉敷(トカシキ)島、座間味(ザマミ)島などで、600人ちかくが集団自決

  [注1] 「自決」という言葉には「自ら進んで」という意味合いがあるが、「集団自決」の場合は、多くは「強制・誘導された死」である。軍から強制されたり地区のリーダーの指示で、感情の抑制のきかない状況の中、力のある者が力のない者をむりやり殺してしまう。実体は「虐殺」とあまり変わらないものだと思う。(集団自決の意味については、教科書裁判でも争点となった)

 ※3月末、白梅隊員7名、病弱または特別な事情により除隊となり、帰宅を命ぜられる

 3月31日、沖縄師範学校男子部等、10校の中等学校男子生徒(13〜19歳)により、「鉄血勤皇隊」編成(伝令や通信、切り込み、急造爆雷を背負っての特攻などを行う。計1780名中、890名戦死)

 同日、軍司令部は、住民の北部(国頭)への移動を禁止

 4月1日、米軍が、日本軍の抵抗を受けずに、沖縄本島中部西海岸の北谷(チャタン)、読谷(ヨミタン)に上陸(総兵力 55万、上陸兵力 18万3千人。これに対し、沖縄守備軍は、現地召集の補助兵力を合せても約 12万人)

 4月2日、読谷村波平のチビチリガマ(ガマは自然洞窟の意)で集団自決発生、82名が犠牲となる(そこから1キロほど離れたシムクガマでは、約千名が集団投降)

 4月3日、米軍は東海岸に達し、沖縄本島を南北に分断

 4月6日、沖縄への特攻攻撃(菊水作戦)開始(6月22日まで、10次に及ぶ特攻が敢行される)

 4月8日、嘉数(カカズ)高地で戦闘開始(中部戦線開始)

 4月16日、米軍伊江島に上陸。1週間の激闘の後守備隊はほぼ全滅。戦死者 4500人の内、島の住民が 1500人(島の全住民の約半数)。アハシャガマで、集団自決約百名

 同日、米軍は、北部地区守備隊として配置されていた国頭支隊の本拠地八重岳を制圧、20日ごろには本島北部全域を占領(国頭山中に逃げ延びた敗残兵と住民・避難民との間で食料の奪い合いとなり、食料の強奪やスパイ容疑による虐殺が頻発)

 4月19日、嘉数高地をめぐる戦闘で、米軍はこの日1日で 30両中 22両の戦車を失う

 4月24日、嘉数高地、陥落

 4月26日、前田高地戦闘開始

 ※4月末、白梅隊員5名が、山第一野戦病院新城(アラグスク)分院(具志頭村新城。ガラビ壕に設けられた)へ派遣され任務に就く

 ※5月初め、東風平分院へ白梅隊員5名勤務。まもなく閉鎖され全員富盛へ帰隊

 5月6日、前田高地陥落

 5月9日、首里攻防戦始まる。

 ※同日、白梅隊員24時間勤務状態となる

 5月12日〜18日、首里西方にあるシュガーローフ(52高地)の戦闘(米軍にも 2662人の戦死傷者のほか、1289人の戦闘疲労症患者(精神に異常を来たした者)が出た)

 5月22日、首里城地下の第32軍司令部、南部・喜屋武(キャン)半島への撤退を決定(残存兵力、3〜4万)

 5月24日、義烈空挺部隊の重爆撃機5機が読谷飛行場を特攻、1機が強行着陸し、手榴弾で米軍機26機を撃破

 5月25日、南風原陸軍病院に南部撤退命令。糸数(イトカズ)分院も解散

 5月27日、司令部、南部の摩文仁(マブニ)に撤退(最南端の喜屋武地区に、約3万の将兵と 10万余の住民が密集して混在する状態となる。軍の戦死者の大部分は司令部の南部撤退までに出ているが、住民の戦死者はそれ以後急増している)

 5月31日、米軍、首里城地下の沖縄守備軍司令部を無血占領

 6月3日、新城分院解散。白梅隊員5名は、富盛へ引き揚げる(独歩患者は原隊に復帰せよ、との命令により、独歩患者や白梅隊員たちはガラビ壕から出たが、約 500名の動けない重傷兵達が残った。衛生兵が彼らに青酸カリを配り、自決を強要した。しかし、青酸カリが致死量に達しなかったりして死に切れない者が多く、もがき苦しむのを衛生兵達が日本刀や銃剣で次々にさし殺していった。その様子を忘れ物を取りに戻ってきた白梅隊員の一人が目撃している)

 ※6月4日、第24師団第一野戦病院は、高嶺村(現糸満市)字国吉へ後退

 ※同日、白梅隊に解散命令下る。隊員は少人数ずつ分散し、夕刻壕を脱出南部へ後退。

 ※6月5日、真壁村(現糸満市)真栄平(マエヒラ)で白梅隊員11名合流。同村真壁で教育隊内務班長の米田軍曹に会い、国吉の病院壕合流を勧められたが、断りグループ行動を選ぶ

 ※6月6日、白梅隊員数名国吉の病院壕に収容され、負傷病兵看護の任務に就く

 同日、米軍が、撤退命令を無視して小禄(オロク)飛行場に陣取っていた海軍部隊を攻撃。 13日、司令官大田実少将自決し、全滅

 ※6月8日、白梅隊員更に数名国吉の病院壕に合流

 ※6月9日、白梅隊員1名、国吉下の壕(現在の自決之壕)入口で直撃弾を受け戦死。隊員初の犠牲

 同日、摩文仁村(現糸満市)で白梅隊員1名戦死、8名重軽傷を負う

 ※6月15日頃、白梅隊員1名、摩文仁村(現糸満市)摩文仁で艦砲直撃弾を受け戦死

 6月18日、ひめゆり部隊に解散命令

 同日、前線視察中の米軍司令官バックナー中将が、砲弾を受け真栄里(マエザト)の丘で戦死(その後、米軍は軍・民の別無く報復的な殺戮を行い、一家全滅など、住民に多数の被害が出た)

 6月19日、第32軍司令官牛島中将、「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久の大儀に生くべし」との命令を出し、指揮を打ち切る

 6月21日、ニミッツ太平洋軍司令官が、沖縄戦の勝利宣言

 ※同日、国吉下の壕、米軍の馬乗りに遭い、手榴弾、催涙弾等投入される。白梅隊員5名自決

 ※6月22日、国吉上の壕(非番時の仮眠壕)機銃と火焔砲射を受け、白梅隊員2名戦死、4名重軽度火傷負う

  [注2] 白梅隊の戦死者は20名。戦傷・戦病死2名以外で、戦死場所が確認された10名中、収骨されたのは2名。戦死場所確認のできなかった隊員は8名

  [注3] ひめゆり部隊や白梅隊をふくめ、女子学徒隊員は7女学校・6学徒隊計で 430人、その内、戦死者 189人。学徒隊解散後に多くの戦死者が出ている

 6月23日、司令官牛島中将、摩文仁で自決(日本軍の組織的抵抗の終結)

 同日、日本本土で「義勇兵役法」発布(沖縄戦における学徒隊や義勇隊の編成には、法的根拠が無かった)

 6月24日、米軍、掃討戦を開始。6月末までに、9千名の日本兵を殲滅し、3千名を捕虜にした

 6月30日、最後まで抵抗していた宇江城(ウエグスク)の山部隊師団本部壕で、軍旗を焼き総員切込み全滅

 7月2日、米軍、沖縄作戦終了を宣言

 8月15日、日本、無条件降伏

 8月16日、文部省、学徒動員解除を通達

 9月7日、守備軍の残存部隊と米第10軍の間で降伏調印式(沖縄戦の最終的な終結)

  [注4] 沖縄戦での戦没者数(沖縄県援護課調査) 沖縄県民のうち戦闘参加者 55,724人 沖縄県出身軍人・軍属 28,228人 一般県民(推計) 38,276人 他都道府県出身兵 65,908人 米軍 12,520人 合計 200,656人 (この中には、飢餓やマラリア等による、約5万人と言われる一般住民の死者、および朝鮮人の死者は入っていない。本土や台湾への疎開者8万人を除いて、当時の沖縄県民約 50万人の内、約 15万人が犠牲になった)

※1947(昭和22)年、白梅之碑建立

※1951(昭和26)年、白梅之塔建立(糸満市字国吉) 1972(昭和47)年5月15日、本土復帰 1972(昭和47)年、摩文仁一帯が沖縄戦跡国定公園に指定され、各種の慰霊塔が建立された

※1979(昭和54)年6月23日、白梅之塔前で昭和20年卒業予定者の卒業式を行う

※1984(昭和59)年、県立第二高女跡(那覇市松山)に、白梅の乙女達のブロンズ像建立

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●主な参考図書と URL

【主な参考図書】

 『改訂版沖縄戦』大城将保、高文研、1997

 『観光コースでない沖縄』(第3版)、高文研、1997

【主な参考 URL】

 那覇市平和と国際交流室提供による平和ガイドのページ
http://www.city.naha.okinawa.jp/heiwa/gaid/index.htm

 沖縄戦
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/okinawasenn.htm

 戦争を知らない世代のための平和学習書
http://www.oki-htu.or.jp/kyouiku-c/shiryou/1999/okinawa_war/index.htm

 日中・太平洋戦争時代年表 1943-45年
http://www.netlaputa.ne.jp/~house/nenpyo/taiheiyo/nenpyo03.htm

(2001年4月2日)