「美術の中のかたち」展を観る

上に戻る


 9月6日の午後、「美術の中のかたち−手で見る造形「展を観に、兵庫県立近代美術館に行ってきました。阪急神戸線の王子公園駅で降り、徒歩10分たらずの所でした。
 たぶん予約は必要ないだろうと思いましたが、学芸員による案内・説明を期待して、あらかじめ電話で時間を調整しました。
 2時くらいに美術館に着き、受付でその旨を告げてしばらく待っていると、Eさんという快活そうな学芸員の方がやって来られました。早速その方が「ちょうど2時からボランティアによる常設展の説明がありますが、いっしょに参加しますか?」と言いました。すぐにはその意味がのみこめませんでしたが、とくに「かたち」展に限らず観ることができる物はとにかく何でも観ようと思っていましたので、一も二もなく「そうします」と答えました。
 ボランティアというのは「ミュージアム・ボランティア」のことで、年齢はかなり高そうですが元気いっぱいの男性でした。一般の来館者10名たらずの中に私も入って、その方の案内と説明で常設展の展示品を観て回るのです。「近代の彫刻」とかいうテーマで、ロダンやマイヨールその他私の知らないような人たちの作品十数点がありました。私にはEさんが付き添い、ケースに入ってなくて触れることのできるブロンズ像を触りながら、Eさんとミュージアム・ボランティアの説明を聞くのです。当然私が触っている作品を一般の人たちも離れて観ている訳で、その方たちは作品とともに私の触っている様子も観ているのだな、と気付きました。偶然とはいえ、面白い試みになったかもしれません。
 ブロンズ像は女性像などどちらかと言えばすべすべした感じのものが多いですが、その中に、全体にざらついた、鑿(のみ)の彫り痕らしきものまで感じ取れるような、私好みの少女の像がありました。私が感心しながら触っていると、Eさんが私の印象・触り心地を他の参加者にも伝えていました。
 20分余りで常設展は見終りました。ミュージアム・ボランティアはとても熱心で、作品の背景などもふくめ次から次へとほとんど休みなく説明していました。すこしゆっくり観たいと思っている私にとっては、ちょっと過剰というか忙しすぎるというか、その人なりの鑑賞がかえってし難いようにも思いました。各作品につきせめて30秒でも1分弱でも沈黙の時間があってほしいです。でも、見える人たちはどうなのでしょうか、それだと手持ちぶさたなのでしょうか。

 「美術の中のかたち」展は別の建物でした。私のほかにも、さっきまでいっしょだった方も数人来られていました。だれでも自由に、自分のペースで、見たり触ったりできます。それに私にはEさんが付いているのですから、最高の鑑賞の場です。
 石の像もあればと思っていましたが、ブロンズばかりでした。石のほうが重量感というか存在感があり、また感触もほんとに様々で、私は好きです。でも今回、ブロンズ像もよく観ると、とても精巧でそれだけ表現力も豊かで、また表面の感触も微妙に異なっていました。小さいブロンズ像でブロンズの厚さを確かめてみると、わずか 3mm程で、その鋳造技術にも感心しました。
 作品は10点程でした。作品名などを書いた点字のラベルもありましたが、とにかく観たいという欲求が先行するためか、ラベルを読むのは後回しになって、まず作品を念入りに触り、私が質問してそれにEさんが答え解説するという風にして観てゆきました。印象に残ったものとしては、ロダンの「けいれんする大きな手」、柳原義達の「道標」、ブールデルの「風の中のベートーヴェン」等ですが、一番心に残ったのは最後に観た作品です。
 それは、両手を高く空に突き上げ、顔を空に向けて何かを訴え叫ぶかのように口を大きく開き、鼻らしき物が直角に大きく上に突き出し、胴体の真中にえぐれたような穴があるといったようなものでした。私の口からはつい「何か爆撃されたような、衝撃を受けたような……」と言葉が出ました。それを聞いてEさんは「ああ、やはり分かるのだなあ」とちょっと感激っぽく言いました。Eさんによれば、その作品は「破壊された町」と言う題で、ロシア生れでフランスで活躍したザッキンという人が、第2次大戦中ドイツ軍に爆撃されたオランダのロッテルダムを表すための記念として創ったそうです。私のまったく知らなかった作者が彫刻に込めた意図と私が触角から得た想像力とが符合したのには、一つの出逢いを感じました。きっと忘れられない経験になるでしょう。

(2001年9月14日)