その3 図の理解

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 最初にお断りしておかなければならないことは、以下の文章はあくまでも私個人の経験に基づくものであって、あまり一般化はできないだろうということです。その分、割引いたうえで、お読みください。
 私が触覚で見た世界と視覚で見た世界との違いに初めて気付かされたのは、たぶん小学1年の夏休みの事だったと思います。夏休みのため、八戸の盲学校の寄宿舎から十和田の家に帰省していた時の事です。3歳違いの妹がクレヨンでなにか描いているようでした。何を描いているのか聞いてみると、「木」と言いました。それなら私も描けると思い(木のだいたいの形は触って知っていると思っていましたから)、私もクレヨンを使って描きはじめました。まず縦に棒を描き、その途中から何本も枝が出ているように、斜め上に線を描きました。ところが、妹は「それは木じゃない」と言って、クレヨンを持った私の手を取り、まず縦に棒を描いた後、その棒の上のほうになんと大きな円を描いたのです(その円の中にもなにか描いたようでした)。私は唖然としました。そんな円は木のどこにもありません。おまけに、近くにいた姉までも、私の描いた木と妹に描かされた木を見比べて、もちろん後のほうが木に見えると言うのです。
 この違いをそれなりに受け入れられるようになったのは、それから 10年近く経った、中学の終りから高校の初めころだったと思います。視覚の場合、点と点の間に簡単に線を引いて全体の輪郭を直ちに〈見る〉ことができるようなのです。そして、上の例では、整った形の木を遠くから見た場合、枝の先端を結べばほぼ円に近い形になるのかなあ、と自分なりに納得しました。そのころになってようやく、触覚から得られた個別の情報を結び付けて、かなり時間はかかりますが、頭の中で全体的な形をイメージすることができるようになりました。
 点字で描かれた図を初めてみたのは、小学低学年のころの算数の教科書だったと思います。それには円や三角形や四角形など、いわゆる平面図形が描かれていました。これらの図形は触って理解するのにさほど支障はありませんでした。
 しかし、小学5年か6年の算数の教科書に載っていたバケツの図を触った時には、またもや触覚と視覚の違いに驚かされました。そのバケツの図は、台形の上と下に楕円形がくっついたような図でした。私の第一印象は、「これはバケツではない」というものでした。というのも、触覚ではバケツはまず円いと思うのに、その円はこの図のどこにもありません。
 この図の台形の部分については、意外と早く理解できました。バケツを縦に切った時の切り口の形を想像すればいいのですから。でも、楕円形の部分については、なかなか分かりませんでした。数年後ようやく、見る方向と円との角度によって、その〈見える〉形が変る、という事に気がつきました。
 私は盲学校では、残念ながら、点字の図とそれが示す物とを具体的に対応させて丁寧に説明してもらえるような機会に恵まれませんでした。点字の図を手掛りに、私は視覚で見た世界を理解しようと私なりに試行錯誤して行ったようです。私のこの試行錯誤の過程でプラスにはたらいたと思われる経験を、次に2、3書いてみましょう。
 小学後学年のころ、私はしばらくの間点字で作る模様に凝ったことがあります。これは点字板を使って作るもので、点字用紙を固定する時に空く上下二つの穴の上のほうを下のピンに固定することで、行と行の間にも点を打てるようにして模様を作るのです。初めはほとんどランダムに点を組み合せて遊んでいましたが、次第にあらかじめ頭の中で点の組み合せを考え、こんな模様ができるだろうと想像してから、実際に点を打って模様を作るようになりました。(実際の例を示せないのが残念です。)これは、頭の中で図を構成していくトレーニングになったようです。
 中学の理科で光やレンズのことを習う機会がありました。鏡を使って反射の法則を(熱によって)実体験したり、凸レンズの焦点で紙を焼いたりしました。でも、実像や虚像、正立像や倒立像といったことはまったく分かりません。私はなんとか分かろうとして、高校の3単位用の物理の教科書も参考にしながら、必死になって(頭の中で)作図を繰り返し、いちおう理屈の上では解決できました。でもそれは、まったく経験に関係
のない論理の上でのことでしたから、〈分かった〉という喜びのわかない、とても空疎な感じの〈理解〉でした。(今はもう、その作図さえ頭の中で再現する力はありません。)それでも、こんな事をしていると、先のバケツの図の楕円形の問題も意外とすんなり分かるようになりました。
 もう一つ、中学時代で忘れられない経験があります。それは、1年間だけ非常勤の先生が担当した美術(教科名は技術家庭だったような気がします)の授業です。この授業の特徴は、美術以外の事も含め、授業時間中に生徒が何をしてもいい、ということでした。この先生は噂では日展の審査員もしたこともあると言う彫刻の専門家で、おそらく見えない人にははじめて出会ったのでしょう、私はその試行錯誤の授業にどんどん吸い寄せられていきました。(もちろん、そういうことに興味のない生徒は自由に本を読んだりしていました。)先生の作った女の横顔の石膏像を触って、きれいにカールした髪の毛一本一本など、そのリアルな表現に感動したり、先生の描いた油絵を触って丁寧に説明してもらったりしました(こちらのほうは、あまりよく理解できませんでした)。
また、初めは石鹸で、次には木で彫刻をしたり、さらに粘土を校外に取りに行って(実際はほとんど泥でしたが)、なんとか人の像を作ったりしました。
 このような美術の授業で、私は視覚についての感覚的な理解への手掛りを、ほんの少しですが、得たような気がします。さらに、中学・高校の数学などで、色々な関数のグラフ、逆関数、対称移動や回転移動、座標を使った位置の表し方等を知りましたが、これらは図を論理的に理解したり、頭の中で図をイメージする時にとても役立っています。
 高校の物理か化学の教科書で、塩化ナトリウムの結晶構造の図がありました。それは斜め上から見た図で、4角形の対角が切り取られたような6角形の図でした[注]。私は、このような図を触ってその立体構造を頭の中で再現するよりは、言葉だけの説明あるいは空間座表を使った説明のほうが、はるかに分かりやすいのになあ、と思ったりしました。
 
[注]見えない人にとって、斜めから見た透視図は一般に分かりにくいとされ、上から見た図、横から見た図、断面図、展開図、またはそれらの組み合わせで示すのが良いとされています。私もその通りだと思います。ただし、先のバケツの図を含め、円柱、直方体等の単純な図、あるいは例えばコイル等の図については、(しばしば見る位置をくふうすることによって)透視図法でも良く理解できる場合があります。
 私は今でも、立体を表わした図を触ってそれを頭の中でイメージすることは、充分にはできません。動物など動く物や、一部だけをとくに強調した図は、しばしば何が何だか分からなくなってしまいます。見えない人の中にも、私よりもとても良く図を理解できる人もいますし(たいていは視覚経験のある方のようです)、またそうではない人もいます。視覚経験をほとんど持たない私が、ある程度図を理解できるようになったのは、とにかく見える世界に興味を持ち続け、少いながらも機会があるごとに、図や絵をそれなりに理解しようと試みてきたからだと思います。視覚経験のない人でも、小さいころから豊富な材料と適切な指導・説明が与えられれば、私などよりもずっと図を良く理解できるように成ると確信しています。