その4 漢字の理解

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 今回は、私が漢字を如何にしてそれなりに理解するようになったかについて書きます。
 以下、点字で表現しなければならない部分は、[ ]内に片仮名で書くことにします。また点字のマス空けは全角スペースで示します。


 皆さんご承知のように、日本の点字は表音文字で、平仮名、片仮名、漢字の区別はまったくありません。すなわち、普通の文字(以下通称にしたがって「墨字」と言う)と点字とのあいだには、単純な1対1の対応関係は成り立ちません。(たとえば、墨字の「意、異、胃、医、亥、い、イ」などは、点字ではいずれも[イ]となります。)
 普通の漢字仮名交じり文を、ただ1種の表音文字しかない点字に置き換えると、おのずとそのプラス面とマイナス面が出てきます。
 プラス面としては、まず第一に、正しく点訳(普通の墨字文書を点字に直すこと)されていさえすれば、たとえば古典や宗教書など、どんなに難しい文章でも、とにかくすらすら読むことはできるということです。私は小学4年生の時まちがえて『源氏物語』を〈読んで〉しまいましたし、高校の時は漢方の教科書も読みました。読む速さだけなら、点字に熟達した人なら、目で読むのと同じくらい、あるいはそれを上回る速さで読むことができます。
 表音文字である点字の読み・書きの速さは素晴しいものです(英語、ドイツ語、フランス語などでは、点字の読み書きの効率を上げるため、略字が広く使われています)。


 マイナス面としては、たとえたいして難しくない文章でも、たまに意味を取り違えたり、正確に意味を読み取れないことがある、ということです。
  これはなにも漢字の問題に限ったことではありません。平仮名と片仮名の区別が付かないために意味が不鮮明になることもあります。たとえば[ヘレント アレントノ キョーチョ]という点字文は、「ヘレンとアレンとの共著」とも「ヘレンとアレントの共著」とも読むことができます。
 さらに漢字が入ってくると、問題はもっと複雑になります。漢字あるいは漢字から成る熟語(いわゆる漢語)には、しばしば同音で異なる意味のものが数多くあります。(第一水準漢字の表で[コー]の所には80の漢字が収録されています。また手元にある『広辞苑』で調べると、[コーセイ]と発音される見出し語は、校正、厚生、構成、公正、後世など29、[コーショー]にいたっては 48もあります。)
 そんな場合でも、ふつうは前後の文脈でその文字・語の意味をある程度推量して、文全体の意味としては大略つかむことができます。(この推測能力も読書の量により増すようです。)でもときには、自分の推測能力ではどうしても意味が取れなかったり、間違った解釈にならざるをえない場合があります。
 一つ例を挙げましょう。高校の終りころだったと思います。世界史の教科書の、第二次世界大戦前のヨーロッパの状況を記述した文章の中で、[ハン ゲルマン シュギ] [ハン ユダヤ シュギ][ハン スラブ シュギ] [ハン キョーサン シュギ]といった言葉が続けて出てきました。私は、[ハン]は“反対”の意味だろうと思って読みましたが、そうすると、どうしてもつじつまが合いません。私のその時の思考力であれこれ考えをめぐらせても、[ハン]にはほかに“半分”の意味くらいしか思い浮びませんでした。
 この疑問が解決されないまま数年経ち、大学に入って「汎神論」について調べることがありました。その時、はっと気が付いたのです。あの時分からなかった[ハン]は「汎神論」の“汎”で、「あまねく、すべて」といった意味があり、英語だと "pan-, all-" に当たる文字だったのです。(すなわち、「汎ゲルマン主義」「反ユダヤ主義」「汎スラブ主義」「半共産主義」だったのです。)本当に〈開眼〉という感じでした。そしてその時は、英語はなんと便利なんだろうとも思ったのです。(でも、私は英語はあまりできないので能率はよくありませんし、また、英語の単語を分解していった時の要素にもしばしば二つ以上の意味があって、語を構成する要素だけから語の意味を正確に推定することは無理です。)


 次に、今から思い返してみるととてもお恥ずかしい経験を書きましょう。それは、私の造語能力にかかわることです。
 私は小学高学年ころから日本点字図書館(郵送で点字図書を借りられる、日本で一番大きな点字図書館。[ニッテン]「日点」と略して愛称していました)の読者に登録しました。次々と本を読む一方、よくこちらの希望や問合せの手紙も書きました。その際、相手を指すのに「[ニッテンデワ]……」とか「[ソチラデワ]……」とか書いていましたが、それではなんとなく覚めたような、また不躾な感じがして、もっと丁寧な書き方はないものかと思っていました。図書案内など、日点からの通信文をみていると、しばしば[トーカン]「当館」という言葉が使われ、それが日点自身を指していることが分かりました。それで、それまで「[ニッテンデワ]……」と書いていた所を、おそるおそる「[トーカンデワ]……」と書いてみました。(この手紙を受け取った係の方はどんなにか戸惑ったことでしょう!)でも、この書き方もなんとなくしっくりこないので、たぶん2、3回くらいで止め、その後はまた「[ニッテンデワ]……」と書くようになりました。
 それから数年して、「貴殿」とか「貴協会」と言う表現に出会い、これは相手を尊敬して使われる言葉のようだということも分かりました。それで「貴館」とか「貴会」という言い方もあるかも知れないと思い、こわごわ「[キカンデワ]……」と書いてみました。この言葉は点字では一度もみかけたことがなかったので、とても不安でした。しばらくして「当方」に対して「貴方」という言い方があることを知り、ようやく安心して「貴館」という語を使えるようになったのです。


 以上例に挙げたような問題に共通しているのは、私が漢字一字一字の意味をよく理解していなかったことです。私が(単語ではなく)個々の漢字の意味に注意するようになったのは、高校も終り近くになってからだと思います。(今日では、最初から目が見えなくても、もっと早い時期から漢字の大切さに気付くようになっているはずです。盲学校用の国語教科書では小学3、4年せいの時から漢字についての丁寧な説明がありますし、また普通学校で教育を受けている盲児の場合は自然に漢字の理解が進むでしょう。)
 私が墨字そのものに興味を持ち始めたのは、どういうきっかけだったのかはよく覚えていませんが、中学の初めころでした。毎朝始業前に、2年上の弱視の生徒に、黒板とチョークを使って(チョークで書いた跡はほんの微かに触って判りました)、初めは平仮名を教えてもらい、次になんとか自分の名前を書けるようにと練習しました(どちらも確実には覚えられず、中途半端に終わってしまいました)。その後、高校2、3年の国語の先生が語の「漢字構成」ということを強調しました。私は、語の意味がだいたい分かればそれで良いと思っていましたし、なによりも漢字そのものの具体的なイメージがまったく無いので、漢字一字一字の意味を考え、それをふくむ熟語を比較するといっても、実感としては宙をつかむといった感じでした。それでも、漢文の入門の所で、「書を読む(読書)」の例が点線を使った浮き出し文字でも書かれていて、とても印象的でした。私が漢字を実際に触ったのは、これが最初だったのです。
 高校卒業後、私はある施設で生活訓練を受けましたが、その中に「墨字」の時間がありました。その授業の教材は、サーモフォーム(真空熱処理によって、原版に浮き出している形をそのまま正確にプラスチック性のシートにコピーする装置)で作られたいわゆる浮き出し文字でした。それはとても鮮明で、注意すれば線の上下の重なり具合も判別できるので、ある程度は書き順まで想像できました。これを手本にして、点線でくぎられたマス目に一字一字鉛筆やペンで書いていくのです。初めは数字や平仮名、それから漢字へと移ってゆきました。漢字については、その字形ばかりでなく、その成り立ち(象形・指事・会意・形声文字)から部首まで、かなり詳しく教えてもらいました。幾人かの視覚経験のない訓練生は漢字に夢中になり、職員のほうは教材を準備するのに必死だったようです。私は半年余りで 400字くらい覚えたと思います。そして十和田市の実家に2回ほど自筆で手紙を書きました。この手紙に母は涙して感激したということです。


 横道にそれますが、母が私の手紙にとても感激したのには、今から振り返ってみるとそれなりの理由があったように思います。母はじつは小学3年くらいまでしか学校に行かず、漢字の読み書きはほとんどできなかったようです。結婚後父に新聞や雑誌を少しは読めるようにと漢字を教えてもらい、拾い読みくらいはなんとかできるようになりました。中学から高校にかけて、私はよく母が新聞を拾い読みしている前後を推測でつなげてやっていました。母はとても感心し、またありがたがってもいました。そんな母でしたから、読み書きがままならないことの不自由さ、その大切さは実感していたはずです。目の見えない私の書いた、ある程度判読できる手紙を見た時の母の感慨もうなずけるというものです。


 では、本題にもどりましょう。
 こうした形での漢字の修得は、しかし、私の場合これが限界でした。角数の多い漢字は覚えるのがますます困難となり、他方、以前に覚えたはずの漢字を次々に忘れてしまうのです。覚えられる漢字数よりも忘れていく漢字数のほうが多くなりそうな状況になってきたのです。そうならざるをえない理由の一つは、教材以外に、私は漢字を使った文章をまったく見ることはできませんし、また自分の書いた漢字もまったく確認することができないからだったと思います。要するに、書かれた文書を読み、また自分の書いた文書を確認するという、文字としての機能を欠いているのです。私の漢字学習は、漢字についての知識や感覚を養うという点ではすこしは効果があったでしょうが、文字そのものを覚えるということではまったく失敗に終りました。それから1年もすると、残念ながらほとんどの漢字を忘れ去っていました。
 その後 10年近く経って、これまたどういうきっかけだったのか忘れてしまいましたが、「漢点字」というものがあることを知りました。漢点字は、点字で漢字を表現する方法の一つで、 1970年ころ、当時大阪府立盲学校の理科の教諭だった故川上泰一先生が発表したものです。漢点字は、表意文字としての漢字の性質が失われないよう、漢字を構成する部首をできるだけ点字に反映しようとしたものです。縦4点横2点の8点から成りますが、漢字の本体部分は下の6点で、1マスから3マス(多くは2マス)で漢字1字を表し、上の2点はその漢字の始めと終りを示すのに使います。
 (点字で漢字を表す方法としては、この他に、筑波大学付属盲学校の先生だった長谷川貞夫師の考案した6点漢字があります。主に、音と訓の組み合わせを基本とするものです。)
 当時川上先生は漢點字学習者のために通信教育を始めておられ、私もそれを受けました。1年弱で常用漢字を終え、その後は漢点字を使って点訳された本を読みながらその他の漢字を覚え、また漢字の使い方も勉強しました。そして、一般のワープロの普及に先だって、1982年ころには NECの PC6601で動作する、漢点字でしか入力できない簡易なワープロソフトを買い、自力でレジメなどを作り始めました。
 最近では仮名漢字変換の精度が向上し、普通の文章ならわざわざ漢点字を使う必要はないともいえます。けれども、固有名詞や専門的な語、自分で造った言葉などを書く場合、変喚モードでは候補になっている漢字から自分の思っている漢字を確実に選び分けるのはかなり難しい作業で、私の場合直接漢点字で入力したほうが安心です。という訳で、私は今でも漢点字でも入力できる特別なソフトを使い続けています。


 では、考案者である川上先生の意図通り、漢点字は表意文字としての漢字の機能を実際に充分果たしているのでしょうか。結論から言えば、少くとも私の場合はそうだとは言えません。皆さんは知らない漢字に出会った時、その部首からその漢字の意味と読みについて、おおよその見当をつけることができるでしょう。しかし漢点字ではそんな風にはゆきません。漢点字では、その構成上の制約から、類似の数種の部首を一つで代表させたり、三つ以上の部首から成る漢字ではその中の二つだけの組み合わせにしたり、同じ点字パターンを避けるためいろいろ例外的な処置などしています。そのため、一部の単純な構成の漢字を除き、漢点字から正しく漢字の部首構成を推測することは至難の業です。ただし、これとは逆に、漢字からそれに対応する漢点字を推測することは可能です。私は、見える人に漢字の部首を説明してもらえば、しばしばそれに対応する漢点字を特定するこどができ、お互いのコミュニケーションにとても役立っています。
 私の場合、漢点字を完全とはいえないまでもマスターしたことで、漢字の理解はそれなりにできていると思いますが、その理解は、見える人が表意文字としての漢字で理解しているものと同じだという訳にはゆきません。
 私にとって(おそらく多くの目の見えない人にとって、もしかすると目の見える人にとっても)漢字の理解はなお課題で有り続けるでしょう。