天海

              天海(てんかい) 1536年?〜1643年
江戸初期の僧。南光坊と称す。人物伝によると、
14歳の頃から、延暦寺など諸寺を遍歴したという。1607年比叡山の探題奉行に任命,このとき、東塔の南光坊に住んでいたので,のちに南光坊天海と呼ばれた。その翌年、徳川家康に駿府に招かれ、その後三代将軍家光の時期まで仕えることになる。大僧正となり、日光東照宮を建立 し、政務にも大きな影響力を持ったといわれている

          天海僧正は、人中の仏なり。恨むらくは、相知ることの遅かりつるを

 上の言葉は、徳川家康が駿府城において天海と初めて対面したときに述べた言葉だそうである。『徳川実紀』に、「常に左右に侍して顧問に預かり・・・」とあるように、家康は天海にほれこみ、その意見を重用した。大阪の人の発端となった方広寺鐘銘事件のシナリオを書いた人物と言われ、江戸城の築城に関しても場所を決定したのは天海の意見によると言う。いわば政治、軍事の顧問格だったのである。また、家康の死去に伴い葬儀の導師となり久能山に葬り、日光東照宮を主導して建てた。その数々の業績から行きながらにして伝説上の人物となり、「黒衣の宰相」と呼ばれた。

 天海が家康と会ったのは65歳頃と言われているが、歴史の表舞台に経ったのはその時からで、前半生は謎に包まれている。自分の法弟である胤海が、「海師はいま何歳でおわしますか」と尋ねたところ、「氏・姓も、行年も忘れてしまった。空門に入った身には、そのようなことを知ったとて何になろうか」と受け流したという。このように法弟にさえも氏、素姓、生年を明かさなかったということで、謎が謎を呼ぶことになったのである。室町幕府の第12代将軍足利義晴の子という説は、朝廷、幕府において以外と信じられていたらしい。また、長年において根強くある説に、天海=明智光秀説というのもある。

 その説が出た理由というのが、まず、光秀の殺された状況が不自然だったということがある。前後に護衛がいた状況で、百姓が突きだした竹槍が偶然に光秀だけに刺さったということ、しかも、前後にいた護衛が刺されたことに気づかなかったという不思議さ。また後に土の中から生首が発見され光秀と断定されたというが、真夏の泥の中に3日間つかっていては、腐敗が進んでいて明確に断定できるのかという意見がある。

 その光秀の年齢が天海とほぼ同じだということ、またそして、天海の諡号の慈眼大師というのは、光秀の木造と位牌が安置されている京都の慈眼寺にちなんだものではないかという疑問もわく。
 そして、比叡山の松禅寺の石灯籠には慶長20年2月に光成が寄進したという意味の言葉が刻まれているが、慶長20年と言えば光成が亡くなってから33年後のことだ。さらに東照宮のある日光には明智平という場所があり、日光の建物のいたる所に明智の紋があること。また、家光の乳母の春日局が光秀の姪だったということ・・・。

 これらの点から天海は実は明智光秀であり、織田信長を徳川家康と明智光秀=天海が共謀して本能寺の変をおこし、後に家康が光秀を天海として徳川家のブレーンに迎い入れたのではないかというのがこの説である。面白い説ではあるが、果たしてどうであろうか?

 天海は1925年に幕府の命により寛永寺を開き、その開祖となった。宗教的にも天台宗中興の祖ともいえる人物であった。亡くなったのは108歳というのが一般的だが、他に110歳、111歳、さらには135歳説まである。いずれにしても当時にとって、異常なほどの長命であったことは間違いない。

          気は長く つとめは堅く 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ

 これは、その天海が、生き方の神髄を託した歌である。


2001年7月29日

 

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