シネマ法話度チェック
       2003年 7月

「朝日シネマ」の閉館以来、京都ではなかなか見たい映画が減ってきた。
「みなみ会館」を運営するRCSのみががんばっている状況だが、時々一般映画館でも地味だが味のある映画を上映するようになってきている。

朝日シネマの元支配人、神谷雅子さん(昔にここの掲示板に書き込んでいただいたことがある)も、独立して如月社という新会社を設立。新しい映画環境を作るべく計画されているようなので、楽しみだ。


「D・I」 2002・仏、パレスチナ合作 

イスラエルパレスチナを舞台にした「喜劇」ということで、どんなもんやろと見に行ったが、何とも不思議な映画。

来ないバスを待ち続ける男や、よその家にゴミを投げ込み続ける男。国境そばの空き地の車で待ち合わせては、手と手の愛撫だけで愛情表現を続ける男女。一応主人公は、東エルサレムに住む男性で、イスラエル領で病気に倒れた父を見舞いに行くが・・。

国境警備の検問所を、アラファト議長の似顔絵を描いた風船が通過していくところなど、ところどころでは、ユニークな表現もあったが、とりあえず、狭い地域の国籍や領土、国民関係がわかっていないと、理解しにくい映画ではあった。
 
シュールさでは「不思議惑星キンザザ」や「キシュ島の物語」にひけをとらない気さえしたが、こういう手法をとらないと表現できないほど、今のパレスチナ問題が深刻ということだろうか?

   (法話度 3)


「人生は、時々晴れ」 2002・英仏合作

 イギリス映画は、時々本当にしみじみした良い映画を作ってくれる。言葉も習慣も違うはずなのに、どうしてこうも心に染み入るのだろうか?

タクシー運転手のフィルは、スーパーで働く妻ペニー、老人ホームで働く娘、そして仕事もせずぶらぶらして、文句ばかり言っている息子との4人家族。

同じアパートには、同世代でペニーの友人たちの家族も住んでいるが、それぞれ年頃の娘達は、遊び人男の子を妊娠したりと、問題を抱え、とにかく登場人物のすべてが何らかの「憂い」(プロブレム)を抱えているかのようだ。

たまたまフィルの息子が心臓の発作で倒れ、友人達の知らせでペニーは病院へかけつけ、フィルにも連絡を取ろうとするが、全てに嫌気のさしていた彼は、携帯電話もすべて電源を切って海を見に行っていた。

そこから、今まで表面的に付き合ってきた家族が本音でぶつかり始める。しかしそこからしか見えてこない「晴れ間」もあるのだった。

巨匠といわれるマイク・リー監督は、台本のない演出でこの映画を作ったらしいが、本当に演技者の自然さが(そのうまくなさも含めて)この映画のリアリティーを高めているのは間違いないだろう。

   (法話度 4)

「六月の蛇」 2002・日本  

翻って現代日本映画。言葉も習慣も同じはずなのに、なぜか心に染み入ってこない。

カウンセラーのりん子は、収入のある夫と高級マンションで二人暮し。何の不足もないはずだが、セックスレスの夫婦関係で、一人で部屋で自慰に耽ったりしているところを盗み撮りされ、写真をネタに、奔放な女性として振舞うことを強制される。

相手は、かっての相談者で、癌で余命短いカメラマンだった。そこから、りん子と夫との心の底に眠っていた願望が動き始めるのだった。

テーマは「愛と性」あるいは「生と死」であるのだろう。主人公りん子役の黒沢あすかはボーイッシュでありながら肉感的で、魅力的だし、全体の青みがかったモノトーンといい、音楽や美術もスタイリッシュだし、そこそこの作品として評価されるだろうが、どうもこの手の映画に、正直心が傾かないのは、単に趣味の問題かもしれないが・・。
  (法話度 2)



番外
今、映画「Shall We ダンス?」の周防正行監督「『Shall We ダンス?』アメリカを行く」という本を読んでいる。日本でも大ヒットした映画を携えて、アメリカ本土を講演と上映に廻った記録だ。

行く先々で、微妙な受け取り方は違っても、人間に共通した感情や感動は見見事に受け入れられることを教えられる。かっての黒沢、小津などの映画が世界に受け入れられていったのは、実にその「特殊性」ではなく「普遍性」にあったのではないかと思える。

現代の日本映画が考えなければならない課題のような気もする。

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