「とおりゃんせーとおりゃんせー ここはどこのほそみちじゃー てんじんさまのー」
どこからか心地良いリズムの歌声が響いていた。何もかもをまかせて安心していられるような、そんな懐かしさを持つ響きだった。このままいつまでもその心地良さにひたっていられたらどんなに幸せだろう・・・。
その時、突然その心地良さが破られた。
「課長! 佐伯課長!」
はっと、佐伯は我に返った。机の正面に、ファイルを抱いた女子社員が立って佐伯をのぞきこんでいた。
何と言う事だ。仕事中に居眠りをしていたのか!
「な・・・何だね。用事かね。」あわてて、佐伯は机の上を整理するふりをして今の醜態をごまかした。
その佐伯の仕種を見てその女子社員はクスッと口を押さえた。
「課長! 最近おつかれじゃないんですか」
「何をいってるんだ。無駄口はいいから早く仕事に戻りなさい!」
邪険な佐伯の言い方に、女子社員はややむくれたような口をして自分の机にかえっていった。
この俺が仕事中に居眠り!? 全くなんと言うことだ! 仕事の鬼と言われて、精力的にばりばりと仕事をこなしてきたこの俺が! 今までには考えられなかったことだった。
こんな姿を上司にでも見られた日には・・・何という評価をされるか分かったものではない。
佐伯はその若さで今の地位を築くには、それなりの努力をしてきたつもりだった。
毎日遅くまで残業をこなし、接待や上司の私用も自らかってでも協力してきた。
時には自分が這い上がるためには他人を犠牲にしてきたこともある。それもこれも、少しでも会社に認められて高い地位につくため、それが佐伯の価値観の全てだった。
そんな自分がまかりまちがっても仕事中に居眠りなんて・・・! 確かに最近少し無理がたたってきているのかもしれない。ふと、そんなことも思ったが、いやそんなことを考えること自体、弱気になった証拠だとそんな考えを振り払うかのように佐伯は電話をとり、いつものようにてきぱきと指示を与え始めた。
佐伯は地方の高校を出て、東京の大学へ入学。卒業後もそのまま故郷へは帰らず、この中堅の証券会社に就職し今日に至っていた。
田舎には両親がいたが、父は大学卒業直後に亡くなり、一人残っていた母も4年前に亡くなっていた。
大学入学以来、長期休みもアルバイトにいそしみ、ほとんど家には帰らなかった。まして就職してからは数年に一度も帰ったことがなかったのではないか。
父が亡くなって以来、母も一人でさみしいことも多かっただろうが、仕事いっぽんやりの佐伯にはそこまで思いやる余裕はなかった。
その後結婚して子供ができてからも、仕事や遠方を理由に、ほんのたまにしか帰省していなかった。母は時々、故郷の特産品を送ってくれたりしていたが、お礼の電話一つでももっぱら妻に任せきっていた。
その日も得意先の接待などで、佐伯がマンションに帰りついたのは午後11時をまわっていた。どうせマンションには誰も待っていない。2年前から単身赴任でこのマンションに一人住まいをしていた。妻と子は東京近郊の一軒家にいる。子供の学校の関係で佐伯一人がこの町へ来ていた。気楽といえば気楽な生活だった。
湯船にお湯をためている間に冷蔵庫からビールを取り出し、グラスにつぐ。
つまみはコンビにで売っているジャーキー。接待で夕食を済ませて寝る前に軽く一杯やるのがいつものパターンだ。
湯船にお湯がたまった頃を見計らって服を脱ぎ、風呂場へ移動する。
たっぷりのお湯に体を浸してふーっと息を吐いた。昼間の疲れがじわじわと体からしみだしていくような感覚だった。
「とおーりゃんせー とおーりゃんせー かー・・・」
ふと歌が口をついて出た。うん? 何だ? 何か昼間に聞いたような・・・。
佐伯は昼間の居眠りの件はすっかり忘れていた。午後からも会議や打ち合わせで目の回るような忙しさでそんな些細な出来事は頭から吹き飛んでいた。
しかし、自分が何か懐かしい雰囲気に満たされていた、そんな感覚だけが残っていた。胸の奥の方から何かせつないような痛みがこみあげてきた。しかし佐伯にはそれがどこからくるものかわからなかった。
「とおりゃんせー とおりゃんせー ここはどーこのー ほそみちじゃー てんじんーさまのー ほそみちー・・・」
佐伯は続きを歌ってみた。そうだ。これは・・・確か子守歌だった。
幼い頃、母親の膝に抱かれて歌ってもらっていた。
他にも子守歌はいろいろあったと思うが、なぜか佐伯はこの歌を歌ってもらうと安心したように眠ったので、いつしかこれが幼い佐伯を寝かしつけるときの子守歌がわりになったのだった。そんなこと、もう何十年も忘れていた。
なぜか今、ふとそんなことを思い出したのだ。
そういえば自分はなぜあんなにも親や故郷を拒否したように生きてきたのだろう。
地方の役所に勤めて、釣りだけが趣味だった父親。やさしかったが、決して表に立とうとしたりしなかった母親。そんな地味な人生を決して自分は歩みたくない。そんな思いだけで突っ張り通してきたのだ。
とくに一人っ子ということで、必要以上に親の期待とようなものを感じてそれも負担に思っていたのかもしれない。
妻に言われて晩年の母に同居をすすめたこともある。結局、母のほうから断ってきたが、何かほっとしたものを感じたのも事実だった。
母は最後まで一人で暮らして、そして逝った。
その時も、ことさら以上の感慨は抱かなかった。そんな自分を冷たい奴とさえ思わなかったのだ。
そんな佐伯が今、幼いころ母の膝で歌ってもらった子守歌を急に思いだすなんて・・・。佐伯は自分がいつしか知らず涙を流しているのに気がついた。
意外な思いにとらわれ、湯船の中でバシャバシャと、何度も顔にお湯をかぶった。
※ ※ ※
翌日も朝からてんてこまいだった。月末の決算を控え、ノルマの状況把握や部下への指示などで忙殺されていた。ここ数日、一日のほとんどを会社で過ごしているような状況が続いていた。
土日も接待のゴルフなどで費やしているので、会社関係以外の生活は皆無といっても過言ではないかもしれない。
しかし、それを特に負担とも思わなかったし、むしろ生甲斐に感じているといったほうが正確かもしれない。
かえって、このごろは離れている家族に連絡をとったりすることのほうが面倒くさかったりする。
最初はそうでもなかったのだが、単身赴任が長引くにつれ、家族のほうもそれぞれの生活が定着し、たまにしか帰ってこない佐伯とは、話題や微妙な生活感がずれはじめているように感じてきたのだった。
子供は塾やクラブで家をあけ、妻は趣味のフラワーデザインの方で結構忙しくしているようだ。
今、帰省しても佐伯の居場所はないのかもしれない。夏の休暇も2日ほど家にいただけで、留守がちな家族とは大した会話もないうちにこちらへ帰ってきてしまっていた。 そのようことが、なおさら佐伯をがむしゃらに仕事にうちこます原因になっていたのかもしれない。
いくつかの会議と得意先の応対をこなして佐伯がようやく昼食にむかえたのは午後1時ちかくだった。
午後からは近郊の支社の方へ出向くことになっていた。
佐伯は昼食を近くで済ませ、そのまま支社へまわるつもりで、一人で会社を出た。
外にはまだ残暑の厳しい陽射しが残っていた。
会社のビルを出た時、いつも以上に太陽がまぶしいように感じた。思わず手で日をさえぎったが、ずっと屋内にいたので目が慣れていないのだろうとそれほど気にもとめなかった。
大通りに来て、横断歩道で信号が変わるのを待つ。まわりには昼食を終えて会社にもどるOLや上着を脱いだ会社員の姿があふれていた。
じとっと蒸し暑い空気がまとわりつく。何かいやな感覚が体の中にわきあがっていた。佐伯は顔をしかめ、ハンカチで顔の汗を拭った。
信号が変わる。たまっていた人波が一斉に動き出した。
佐伯も人波と共に足を出した。歩き始めて4、5mも行くか行かないかのころ、急に頭の中で何かがはじけたような感覚があった。目の回りがクラクラとし、視界がグニャッと歪んだ。
何かおかしい、そう感じた時には、天地の感覚がわからなくなり、渦巻きに吸い込まれるように体が倒れ込んでいった。
スローモーションフイルムのようにまわりの景色が傾き、堅い地面に体を打ちつけた感覚があった。しかし、不思議と痛みは感じない。
何人かの顔がまわりから覗きこんでいるのはわかったが、まわりの様子は夢の中のように霞んで見えていた。
その時だった。佐伯は確かにあの歌を聞いた。昨日から何度も頭の中に響いていたあの歌。幼い頃歌ってもらっていた「とおりゃんせ」の歌を。
「とおりゃんせー とおりゃんせー ここはどーこのー ほそみちじゃー」
固いアスファルトの上で、体が痛いはずなのに、なぜか母の膝に抱かれているような不思議な安心感があった。そして子守歌に抱かれて、こんどこそいつまでもこの感覚に浸っていてもいい・・・そんな確信があった。
「もういいんだよ。よくがんばったね。帰っておいで・・・」
そう母からなぐさめてもらいながら、その膝に抱かれていた。
「母さん・・・」
もう、何年も言ったことのない言葉が口をついた。
もういいんだ。ずっとこの膝に抱かれていてもいいんだ。いつまでもここにこうして・・・。
「この子のななつの おいわいにー おふだを おさめにー まいりますー」
懐かしい歌に抱かれながら佐伯の意識はそのまま遠い世界へと吸い込まれていった。
横断歩道の真ん中に、時ならぬ人の輪ができていた。歩いていた男性がいきなり倒れ込んだのだ。近くにいた男性が覗き込み声をかけた。
「どうした! 大丈夫か!」
体を軽く揺すってみる。
「おい! この人、死んでいるぞ!」
「きゃーー!!」
女性の悲鳴があがった!
「おい! 誰か、救急車を呼べ!」
人の輪はどんどん大きくなった。その輪の中心に、サラリーマンらしき男性が倒れていた。おそるおそる覗き込む人々。
そのバックに一つのメロディーが流れていた。
童謡「とおりゃんせ」のメロディー。
横断歩道の音声信号のメロディーだった。あまりに日常的過ぎて、そこにいるほとんどの人間には意識されていなかっただろう。
それはまるで、固いアスファルトをしとねに眠る男性をあやす子守歌のように、昼下がりの街に流れ続けていた。
倒れている男性の顔には、安心したような不思議な微笑みが浮かんでいた。
終
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