1 大善院の歴史・沿革

 大善院は建武年中(AD1334,5年)、武田明信(たけだ みょうしん・大善院開基)よって開かれました。

 明信は、仏光寺第七代・了源(りょうげん)上人の長弟で、了源上人が本山の寺基を東山汁谷の地に移されると、上人に従って同地に留まり、道場を草創し、「南坊」(なんぼう)と称したのに始まります。代々、一派の柱石としての寺格にあります。

 文明14年(AD1482年)、一派分裂の事変に際しては、第六世・覚甚がよくその柱石としての面目を発揮し、仏光寺寺運の挽回につくしました。
 時の宗主、光教上人は深くこれを多として信頼されました。
 これが本寺の仏光寺六院家の一にある所以であります。

 天正14年(AD1586年)、仏光寺本山が豊臣秀吉の請いにより、東山から現在地に移る時に、再び本山に従い、本寺もまた現在地に移りました。

 寛永十年(AD1633年)、寺号を「大善院」と改称。
当時、中本山として末寺(下寺)45カ寺を持ったと伝えられます。
 天明8年(AD1788年)の大火、及び元治元年(AD1864年)の兵火、共に類焼し、法宝物等のほとんどを失いました。

 明治13年ごろ、常設の学寮として大善院に学寮が開設されたようです。
 その後、同23年ごろには東洞院に新校舎が完成し、学寮は移転しました。
 
  第21世・良祐師より佐々木姓となります。
 明治末(1910年前後)、現在の本堂を建設。
 平成8年(1996年)、現在の庫裏・書院を新築しました。
 
  開創以来、代を累ねること、現住職・正祥で24代、約670年になります。


                                (仏光寺辞典他より)
2 大善院の住所・地図
住所 〒600−8084
     京都市下京区高倉通り仏光寺下がる新開町397−9
     TEL 075−351−4883
地図
  
3 本山仏光寺について
 仏光寺は、真宗十派の内の一つである、真宗仏光寺派の本山で、渋谷山と称します。
 真宗の開祖、親鸞聖人が越後流罪を勅免により許され、建歴2年(AD1212)に一時帰洛され、山科に一宇を建立され「興隆正法寺」と名づけられたのを発祥とします。

 その後、代々高弟による法脈相続が続き、第7代・了源上人(1294−1335)のとき、寺基を山科から洛東・汁谷の地に移され、この時、後醍醐天皇より阿弥陀仏光寺と下賜され「仏光寺」となりました。

 「名帳」「絵系図」「光明本尊」などを使った伝道で、14世紀から15世紀にかけて、教線を大幅に拡大しましたが、一方、比叡山宗徒からの圧迫や本願寺との確執も多くありました。

 15世紀末、経豪が仏光寺を継いだころ、本願寺に蓮如が出て、経豪は蓮如に私淑し、比叡山の圧力もあり、仏光寺を追放されました。その時、仏光寺末寺48坊のうち、42坊までが教豪と行動を共にしたといいます。
 経豪が去った後の仏光寺は、弟・教誉上人が跡を継がれ、残留した六坊(奥坊、角坊、新坊、西坊、中坊、南坊=大善院)と共に寺盛の回復を図りました。
 
 
 応仁の乱(15C)、天明の大火(18C)、元治の兵火(19C)などでそれぞれ両堂などを焼失しましたが、それぞれ門末の総力を挙げて再建してきました。

 仏光寺派には多くの仏教美術品が多く残され、真宗寺院全体の中で5カ寺だけにある、重要文化財指定の本尊のうち、4カ寺までが仏光寺派にあります。
 仏光寺派は又、女性が御門主に立たれたことが何度かあるということもあって、女性の地位の尊重、婦人教化にも力を入れられたことも特筆されます。

  現在の暁真門主は31代にあたられます。

           「仏光寺辞典」「仏光寺の歴史と信仰」等より



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