住職「ややマジ感話」---(1)

 「浄土は常に私の背後にある」について

 というとこで、何も柱がないとさびしいのでとりあえず「今月の言葉」についての一言。
「浄土は常に私の背後にある」とはどういうことか?

 よく真宗では「阿弥陀仏に救われる」という。そのことへの目覚めが究極の目的でもある。しかし、それ以前に、そもそも本当に救われたいと思っているのか?

先日、元大谷大学学長の寺川俊昭氏がある本の中で、「私たちといううのは口では救われたいとかいうが、本当はそんな面倒くさいことなど考えずに生きていきたいと思っているのではないか?」と提起されていた。
全くもって自分の内面を言い当てられたように思えた。確かに何らかの悩みや人生苦に出会ったとき、人はそこから何とか逃れたいと思い、藁にもすがる思いで、いろいろな物に頼ろうとする。

もちろんその中に「仏」を頼んでいく道もある。ただ真宗ではそのことを現実的な解決(利益)としていただくのではなく、あるがままに(現実には問題が解決しないまま)いただける信心を賜っていくことに目標をもっているが・・。
いずれにしても、ひとたびその悩みや人生苦が過ぎ去ったように思うと、とたんにそういうことが面倒くさくなってしまう。
 そして、現実生活の諸々の出来事に埋没してしまいたがる。ミーハーな私などは正にその典型と思う。
現実を超えて救いを願うのではなく、現実的な救いのほうを選んでしまいがちになるのだ(彼岸志向ではなく此岸志向)。

そしておそらく又、自分ではどうしようもない、何らかの人生苦に直面したとき、思い出したように仏に頼ろうとするのではないか?
「日頃の心では往生かなわぬ」と述べられた先師がおられた。 「日頃の心」の真っ最中で生きている私などは、正に「浄土に背中を向けた存在」なのだろう。 ならばどうするのか? せめて自分がいつも浄土と真反対の方角を向いていることを時々に意識することぐらいしかできないのかもしれない。

 しかし、浄土がどこにあるかわからないより、一層自分の真後ろにあると腹をくくった時に、不思議な安心感を覚えるのも妙なものである。 
                          2001・8・19       釈 正祥

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