★「報復感情を考える」
「ややマジ感話」を違うテーマで書きかけていた。
そこへ先日のアメリカでの同時多発テロのニュース。
本当にびっくりもし、犠牲になられた方、家族の方にはお悔やみの言葉もない。
今なお救助活動をはじめ、事後の対応に追われているのは連日のニュース等で報道されているとおりである。
ただ、気になるのは、やはりアメリカがこれを「戦争」ととらえて、全面的な報復に出ようとしていることである。もちろん、この規模の事件を起こした犯人を一日も早く捕まえて、罪に服させようというのは当然のことと思う。その過程でひょっとして、反撃に遭い、結果として戦闘状態になることもある意味仕方がないかもしれないとも思う。
しかし、「戦争」ということになれば、当然そこには非戦闘員の犠牲が必至であり、その中には生まれたての赤ちゃんさえ含まれるかもしれない。
相手が無差別テロを行ったから、こちらも同じくやり返すでは、本当に民主主義国家といえるのであろうか?また、一時的に戦争に勝利したとしても、そこに完全に事態の収拾が臨まれるであろうか?
正に「怨みが怨みを生む」という悪循環の発端になるばかりではないか?
話は少しとぶが、何年か前に、妻と幼い子供をいきずりの犯人に殺された若い夫が、TVに顔と名前を出して出演し、殺人事件などの被害者の思いを切々と訴えられていた。
話を聞くほどに、その悲惨さ、残された者の精神的な辛さがひしひしと伝わってきた。
本当に今の日本において、被害者の人権が守られていないというとことを改めて知らされた。
そういうことを聞くと、本当に犯人が憎く、「厳罰」で処さねばならないという気になってくる。
しかし、あえて思うのだが、それで犯人が仮に死刑になり、命を奪われれば被害者の気持ちは本当に平穏になれるのだろうか?
自分がその立場になった時、えらそうにいいきれる自信はないが、それでは本当の救いにならないような気もする。
親鸞聖人の師であり、浄土教の開祖とされる法然上人は、子供のとき、地方豪族であった父が戦で殺された。
臨終の床に子供の上人を呼び、父は「相手を恨むのでなく、敵味方ともに助けられていく道を求めてくれ」と遺言されて亡くなられ、それで法然上人は仏道の道に入られたと聞く。
仏教で人間の三大煩悩として、「貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚癡(ぐち)」を言う。
このうちの「瞋恚(しんに)」とは怒りのこころのことだ。
人間である限り、喜怒哀楽の感情からは完全には自由にはなれない。
いやむしろ人間であるからこそ、感情が豊かにもなれるのであろう。
しかし、一歩間違えばそれは、自らを強く縛ってしまう「呪縛」ともなってしまう。
人間怒らなければならない時には怒ることも必要かもしれない。
しかし、どこかでそれを抑制する力もはたらかなければ、暴走するだけになってしまう。
ましてやそれが暴力を伴ったり、危害を加えることであればなおさらだ。
個人のレベルでなく、国家というレベルならもっと慎重な態度が要請されるのではないか。
先の家族を殺された方は「被害者の会」などに入って活動されているときく。
国家レベルでいや地球レベルで「共に救われていく道」を模索していかねば、人類の未来はないとさえいえるのではないだろうか?
2001.9.16 釈 正祥
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