住職「ややマジ感話」ーー(3)
  
★「デス・エデュケーション」について  その1

 アメリカのテロ事件で、すっかりとんでしまったが、本来この「ややマジ感話」に書く予定だったのは、「デス・エデュケーション」の話題だった。「デス・エデュケーション」は直訳すれば「死の教育」だが、たずさわっておられる人たちは「いのちの教育」と呼んでおられる。

実は、この9月の中旬、同朋大学の田代俊孝先生の上記の集中講義を1週間受けていた。
田代先生は「死そして生を考える会」を10数年前から主催され、仏教(真宗)の立場から、現代の生命倫理などに積極的に発言され、またビハーラなど、ターミナルケアについても実践されている、その分野の第一人者である。

 正直、住職は、今いろいろ話題にもなる、「臓器移植」「安楽死」などの話題について、よくわかっていなかった。外国に心臓移植などに受けにいかれる人や、ドナーカードなどについて、それを望む人がいて、供給できるシステムがあるなら、かまわないとまで言わないまでも、積極的にそれを批判できるほどの知識も持ち合わせていなかった。

 また、「安楽死」などの問題についても、現在のチューブだらけで、機械に囲まれ病院で死んでいかねばならない現状の中では、むしろ「人間的」なことでさえあるのではないかとも思っていた。

そんな住職だが、やはり仏教の立場からしっかりそういうことについての見識をもっていきたいという気持ちと、これからの仏教は具体的にそういう活動を組み入れていかなければならないのではという、思いでこの集中講義を受けることにしたのだ。(実際に学生に交じって、朝から夕方までの講義は厳しかったが・・)

 講義は、主に仏教の立場から、「死」をどういう風にとらえてきていたか?その歴史や、真宗における「死」のとらえという、「教義的」な部分と、いろいろビデオなども使用した、現代における様々な「死」をめぐる問題など、「実践的」な部分で行われた。

 ビデオでは、様々な現代の「死」をめぐるシチュエーションを見せてもらった。
例えば、アメリカにおける「デス・カウンセラー」では、実際にエイズに罹り、病院ではなく「ケアハウス」などで、ボランティアに支えられて最後の時を待つ人が実際に映っていた。
そして、なんとその「ケアハウス」では「仏教」にのっとったよるケアが行われていた。
仏教と言っても、チベット仏教の「死者の書」という書物を枕もとでボランティアの人が朗読されるだけなのだが、それでも何も頼れるものがなく、死への不安だけの中で、孤独に最後を迎えなければならない人にとっては、とても心が安らぐよう様子が見て取れた。
              10月14日               (つづく)

 

                             ややマジTOPへ