住職「ややマジ感話」 ーー(6)

 
                「自分の死」を考える

 1月の末ぐらいに、おそらく風邪と思うが体がだるくて動きづらく、2〜3日ほとんど外へも出ず、悶々として過ごしていた。年末から続いた本山関係の任務や、祖母の病状の悪化や、葬儀の喪主としての緊張感、ほとんど平行して檀家さんの葬儀が入って、綱渡りみたいな生活をしていたので、ちょっと間があいて、体がほっとしたのかもしれない。

そんな中、夜寝苦しくて、頭が混乱していたということもあるかもしれないが、いろいろな事を妄想してしまったりもした。
特に今回、胸のあたりが苦しくて、ひょっとして心臓が急に止るのではないか?とかさえ思っていたので、よけいにそうだったかもしれないが、このまま自分が死んでしまうこともあり得るのかなどと、おおげさだが、そんなことさえ思ってしまった。

 そんな時、一つのイメージで、自分が車を運転していて崖のようなところでガードレールを突き破ってスローモーションのように海に落ちていく場面を思い浮かべていた。
人間最後の瞬間は自分の一生が走馬灯のように頭をめぐるというが、たぶん崖を落ちていく間、そんなことも起こりうるのかもしれない。そして最後は海か岩が大きく広がっていって、何もわからなくなってしまうのだろう。変な話しだが、その時、本当にそんなことを考えていた。

そして次の瞬間、自分はどうなっているのだろう。今生きて考えている自分はどこにもいなくなってしまう。ただ無だけが広がるのだろうか?

もちろん、浄土真宗的には、死んだら「浄土往生」ということを言うのだから、浄土に往生と思って死んだいければいいのだろうが、こんなことを言うと僧侶としてどうかとも思われるが、いざ自分の死ということを考えたとき、なかなかそう割り切れないのが正直なところだ。
つまり、頭で考えていることと、身で実感していることが違うのだ。

他人の死なら、たとえ身内であっても、最後はそれなりに多くの「死の歴史」の中に位置付けられると思う。しかし、いざ自分がと思ったとき、位置付けるも何も、今そう思っている自分がいなくなるのだから、そうは思えないような気がする。つまり早い話、自分が死ぬのが怖いのだ。

今年いただいた年賀状の中に、「人が生にこだわるのは死ぬのが恐ろしいのではなく、孤独に終わる人生に耐えられないのである」という言葉があった。
例え身内の多くの者に見送られていても、最後は人は基本的に一人で逝かねばならない。
「大無量寿経」というお経の中に「独生、独死、独来、独去」という言葉がある。人間のありようとして所詮独りで生き、死んで、来たりて、そして去っていくのだ。それを誰も代わることができないとある。

 たまたま体がしんどくて、よけいにナイーブに考えてしまってのかもしれないが、元気な時には、無意識に避けようとしている「自分が死ぬ」ということを、ある程度考える機会になったのは事実だった。
「死ぬのが恐い」ということを「信心がないからだ」と言われてしまえば一言もないが、まずはそこから出発することも必要なことではないかとも思えた。

「問いがないところには道はない」ともいう。
                                        (2002.2.6)

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