住職「ややマジ感話」 ーー(7)


       「聖道(しょうどう)の慈悲、浄土(じょうど)の慈悲」

先日、知人からFAXが送られてきた。その文面には「ペットショップが倒産して○月○日に100匹の犬が処分されそうです。引き取っていただける方は下記までご連絡ください。」とあり、下の方電話番号などが書かれていた。

 メールなどでは時々、いろいろな活動への賛意や協力を求める不特定多数に送られるメールが送られてくることがあるが、今回、珍しくFAXだったことや、知人の名前入りの直筆であったことなど、また、日付がすぐ2日後だったこともあり、妙に気になってしまった。

かと言って、うちには今一匹犬がいるし、すぐに新しい犬を飼えるような状況ではない。
しかしそうこうするうち、みすみすいくつもの命が失われていくのがわかっていながら、何もしなくても良いのか?
せめて誰かに知らせるとかしなくてもいいのかなど、いろいろな思いが頭をよぎっていた。

といいながらも、すぐには何も思いつかず、また送ってきた知人に問い直すとかの行動にもでなかった。

命にかかわるといいながら、自分はそれだけに一所懸命になるわけでもなく、ちがう予定のことを考えてしまったり、遊びに行くことを考えていたりもする。

結局そうこうするうち、期日がきてしまった。ああ今日だなと思いながらも何もしないままに、その日が過ぎていった。
妙な話しだが、いっそう期日が過ぎてしまうと何かほっとしたような気にもなってしまっていた。
いずれにしろ、もうどうすることもできないのだからというような感覚だ。

そんな自分は何なんだろうと考えてしまったりもした。

これは対象がたまたま犬だったからだろうか?そうとばかりも言えないような気もする。

たとえば戦争中にナチスの迫害からユダヤ人を守ったシンドラーや日本人の杉浦千畝さんのことが良く知られるが、例えばそのような時代にそのような立場にあっても、自分はひょっとして何もできないのではないかと思う。

何も過去の戦争中に限らない。現在も世界の、いや日本においてさえいろいろな状況に置かれている人がたくさんいる。
毎日のように戦争や事故で大勢の人が亡くなっていたり、病気や飢餓の状態に置かれていたりすることがTVなどで報道されている。

その時は一瞬、同情したりもするが、決して長続きしない。
また次のお笑い番組が始まれば大笑いしている自分がいる。しょせん、他人事なのだ。

こういう時に思い出すのが、「歎異抄」の中にある「聖道の慈悲、浄土の慈悲」という言葉である。

意訳すると、『聖道の慈悲(人間のヒューマニズム)というのは、あらゆる生き物をあわれみ、自分の力で何とかしたいと思うのだが、いろいろな制約の中で思うように助けることができないという限界がある。
翻って浄土の慈悲(仏の慈悲)というのは、まず自らが本願を信じ、念仏を申して、いそぎ仏となり、その仏の大いなる慈悲の力をもって、思うように生きとし生きるものを助けることができる。』というものだ。

これはとりようによっては、人間の努力をまるで否定しているようにも受け取れる。
しかし決してそうではないのだろう。おそらくこれは人間の努力を極限まで追求した人にして、初めていいうる立場ではないかと思う。自分が最初から何もしないでいて、それを合理化するために述べられた言葉ではないのではないかと思う。
この受け取り方はいろいろな立場もあり、決して学問的ではないかもしれないが、私はそのように受け取っている。

ただ、現在のように「情報化社会」が徹底して、世界中のあらゆる事柄がめまぐるしく報道される時代にあっては、ある程度感覚を麻痺ささないと日々暮らしていけないのも事実だと思う。

冒頭の犬の件も、たまたまFAXが送られてきたから知ったが、そうでなければ知ることさえなかったし、また、今回のことにかかわらず、毎日多くの動物が保険所などで処分されていることは周知の事実だ。
それに対してほとんど何も考えたことが無いのも事実だ。
本当に何を大事に思うのか?

「全くの無関心」「振り回され」の間のどこに自分の立場を置いていくのか?
いろいろ考えさせられた出来事であった。

 p.s FAXと同じような文面が娘の携帯のメールにも友人から入っていたそうだ。かなり大がかりにチェーンメールのように廻っていたのかもしれない。娘曰く「何で他のペットショップに譲らはらへんかったんやろ?」

                                         (2002年 4月10日)

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