2001年(7月まで)分

品井沼(01/04/??だと思うが・・・)

・以前から疑問に思っていたことがある。
野蒜海岸へ注ぐ鳴瀬川と吉田川。並んで流れるのに、なぜ間が仕切られているのか。
品井沼ってどこにある沼なのか。
・何度かこの辺を走って、案内板、記念碑等見ている間にいろいろわかった。
吉田川は、昔は品井沼の先で鳴瀬川と合流していたのだ。だが、雨が降ると鳴瀬川から逆流し、品井沼があふれたらしい。だから、吉田川は鳴瀬川と切り離されて海まで下るのだ。
そして吉田川は、水害対策と干拓のため、品井沼へ流れ込まないように堤防が作られている。品井沼の水は鶴田川から、なんと吉田川の川底をサイフォン状にくぐり、、高城川として松島湾へ注いでいた。その高城川は途中の丘陵を超えるためにトンネル(明治潜穴)をくぐる。高城川はおそらく先人が大工事を行って造った放水路なのだろう。これらの大工事の結果、沼は美田と変わっている。沼はもう無いのだった。
・これでなるほどと思っていたら、未だ甘かった。江戸時代にも品井沼から松島湾へ水を抜く大工事があった。品井沼駅から東北本線沿いに松島へ向かうと、線路脇の田圃の中に直径2〜30Mほどのすり鉢状の穴が数十m置きに並んでいるのが見える。このすり鉢の底をトンネルで繋ぎ、そのトンネル(元禄潜穴)を通して品井沼の水を放水していたらしい。先人達の血のにじむ努力に脱帽であった。
・松島町から45号線を北上し、三陸道にぶつかるところで346号(佐沼街道)へ。ここから鹿島台までの約3kmの区間で見ることができる。
(写真は後日撮り直し)
 サイフォンの出口=高城川の始まり。上の土手は吉田川の堤防。200m向こうの対岸には鶴田川が沈み込む入り口がある。最近の工事かと思ったら、大正〜昭和初期に最初のサイフォンは作られたそうな。当時130m、今は200mのサイフォンだ。  これは明治潜穴の出口。いかにも明治のたたずまいだ。実際の所は、老朽化していたところへ宮城県沖地震で相当な損害を受け、中の方は現代の技術による修復済み。出入り口だけがこの姿とのこと。ただし、トンネル内に明治時代の距離表示の標識をそのまま埋め込んだらしい。明治の先人に敬意を表してと言ったところか。人の営みはこうして脈々と受け継がれていくものらしい。私は何か残せるのだろうか・・・。
 写真では暗くてよく見えないが、これは元禄潜穴の入り口。2本平行して掘ってあるらしい。2本以上無いと修理ができないからね。掘ったのは1600年代のことらしい。  これが元禄潜穴のずり穴。この穴がいくつも並んでおり、その底をトンネルで繋いだ。数え切れない程の犠牲者(4桁の人数らしい)を出したそうな。(デジカメの写角が狭くて、表現できません・・もっと広角レンズ欲しい。)


01/05/13 北上川をさかのぼる

 毎週、地図とにらめっこしてコースを考えるのだが、行きやすいところはだいたい行ってしまったので、迷うようになってきた。
南や西方面は車が多いのでいつもより一層早起きしなければならないし、東の海沿いは行ったばかりだ。北は?と思ったときに目に入ったのが北上川だった。
 私の故郷盛岡市の景観は、見方によっては川によって形作られていると言える。繁華街を流れる清流、中津川と、郊外の清流雫石川は水辺で遊べる優しさがある。これに対し、北上川は豊富な水量で人を寄せ付けない感じ、恐れを抱かせる強さがある。北上川には懐かしさや、ちょっとした畏怖の念があった。北上盆地を流れるすべての水を集めて、北上川は岩手を縦断し、宮城県北上町で海に注ぐ。海に注ぐときの北上の流れはどんなものだろう。まずはそれを見に行くことにした。ついで、出来るだけさかのぼってみた。いつか源流まで行ってみるのも良いかも知れない。
@北上川河口。(北上町)
 6:00に家を出発。石巻市街を避けたいので、利府街道から惣の席ダム脇を抜け、大郷、鹿島台、南郷、河南、河北で北上川にぶつかる。ここから川沿いを海まで下った。河口近くの川岸には葦原がひろがる。葦簀を作るあれである。川幅も広い。
 河口についた。広い砂州の中、豊かな水量とかなりの速度で海に流れ込む。海も圧倒的な力で川を押し戻すかに見えるが、ぶつかるところで少し波が立つ程度で、海は北上の流れを静かに飲み込み続けるのだった。変なことを言うようだが、こんなに大量の水が流れ込むのに海があふれないのが不思議に思えた。
A志津川町のモアイ。
 河口からは一端川を離れて志津川まで海沿いを進む。本吉街道を抜け東和町で再び北上川に到達するのだ。
 海沿いを北上する道は、車も少なく快適なツーリングだ。10台ほどのツーリング団体とすれ違うが、タイミングが合わずサインを出し損ねる。と、道路脇のパーキングにモアイ発見。予想もしない出来事にビックリ。いわれを探す。どうやらこれは本尊(?)ではないらしいとわかり、町の中心部にある写真の本尊を探す。なかなか見つからなかったが、それも道理。「チリプラザ」という所にあるというので「プラザ」らしい建物を探したが、それは建物ではなく公園だった。
 説明によると、このモアイは、チリ沖地震による津波災害の30年を期に、チリの彫刻家に彫ってもらったものだそうだ。モアイの脇には、イースター島・モアイ・ロンゴロンゴ(古代文字)に関わる説明の碑文も添えてある。この碑文がなかなかの名文。詩的なリズム、未知への憧憬、探求心を呼ぶ内容・・・。誰が書いたんですかこれ。一読したらイースター島へ行きたくなること請け合い。目を閉じても情景が浮かぶようだ。皆さんも現地で是非ご一読を。
B志津川からは、本吉街道で東和町へ。途中、小さなお堂を見つけ立ち寄る。源義経が頼朝に追われ、平泉の藤原氏に匿われていた時、義経に従っていた従者に小森某というのがいたそうだ。その奥方(小森御前)が、夫に会うべく子供をつれてはるばるこの地まで来たとき、義経および夫の討ち死にを聞き、絶望して川に身を投げた場所だそうだ。ところがその小森某は義経の命により、名を変えて秋田のほうへ落ち延びていたことが最近までの研究でわかったとか。その子孫と、御前とともに居た子供の子孫が今から10年くらい前に再会(再会なのか?)を果たしたといういきさつが有ったそうである。歴史上、義経や弁慶のことは有名でも、その周辺にいた人間の事などだれも省みないと思っていたが、そこにも人生はあり、物語があるものだなあと妙に感じ入った。
C左、東陽寺。右、原田甲斐の首塚。その後ろには銀杏の巨木。
 さらに北上川を目指して走っていると、「原田甲斐」と言う文字の看板をみつけまたまた寄り道。山本周五郎好きの私としては寄らないわけには行かない。
 この人は、伊達家のお家騒動における極悪人と言うことになっている人だが、周五郎の小説「樅の木は残った」では自分が罪を被ることで伊達家をお取りつぶしから救った人として描かれている。真偽のほどはわからないが、密かに江戸から首を持ち帰り、仙台からは(?)釣り鐘の中に隠して船で(北上川経由)運び、寺の裏に埋葬し、目印に銀杏の木を植えた・・・と言うことである。
 自分に罪が及ぶ危険を冒してここに運び祭った人の名が刻まれた碑があるが、どうやらこれは偽名らしく、しかも伏せて置かれていたそうだ。原田甲斐を慕っていた人、甲斐の無念を思う人が居たことは間違いない。周五郎もここを見てそんな風に思ったのだろうか。
D東北の大河、北上。(岩手県に突入。川崎村)(そういや宮城にも川崎町があるな。)
 東和町からは川は岩手県に向かいまっすぐ北上する。川の土手を高めのギアでパルス感を楽しみながらのんびり走る。川が見やすいように、川を左手に見る道を選んで走った。車も信号も少ない。道は、広くなり狭くなり、時には民家の裏庭のような所を抜けて続く。川も広くなり狭くなり、田畑や覆い被さるような森の中を、深い緑色をたたえながら滔々と流れていく。
 ここが本日の目的地。北上川が大きく曲がるところで、川幅がとても広い。ツーリングマップルにここから見る北上川は絶景と有った。絶景と言えるかどうかは別として、確かに大河の趣。現在大きな橋を架ける工事中。橋が出来ると、(景観の事だけ言うと)この景色もぶちこわしかなと思うが、反面できあがった橋の上から北上川を一望してみたいとは思った。
 川崎村内で給油。一関から東北道で帰る。


01/06/10 秋保、村田

 この日は軽く流すだけ。まずはちょい乗りのホームコース、泉が岳から大倉ダムへ。これで帰ってはつまらないので、そこから秋保へ抜けて秋保大滝。国道457号を川崎町へぬけ、村田へ。(457号は車が少なく、そこそこ走りやすい道。)
 村田では、白鳥神社の蛇藤を見た。確かに大蛇のような凄い藤である。かなり痛んでいるがまだまだ元気でいて欲しい。藤に巻き付かれている杉も大変そう。杉が枯れてもこの藤はやばいんだろうな。他にも銀杏やケヤキの大木があった。

秋保大滝。
 かなりの落差で、立派な滝だ。
近くまで行けば迫力あるのだろうが、時間の都合でこれだけ。
何年ぶりに来たかな。
蛇藤。
 前九年の役で、坂上田村麿が蝦夷地討伐(征服だろう)に来た時の話。この地で敵に囲まれた際、この藤が大蛇になって救ったのだそうな。ありがたく祭ってあるが、私たち東北人は敗れた方の子孫かもしれないぞ。
 私の故郷岩手にも、その遠征の名残の地名がたくさんある。この藤が蛇にならなければ、それらの地名はまた別のものだったのかも知れない。
 それはともかく、近くの老杉に巻き付いて天高く立ち上っている姿は確かに迫力がある。田村麿の時代からこんなに大きかったのかな?


01/07/21 小野田町、山形県尾花沢市、村山市

 せっかくの3連休だし、天気も良いので半日ツーリングに出た。泉ケ岳の手前から457号を北上し、小野田町から347号線で山形県
尾花沢市へ。村山市で蕎麦を食べて、48号で関山峠、いつものごとく大倉ダム経由で泉区へ戻るルート。
いつもよりやや遅くて。6:30出発。
@竜泉寺の門(小野田町)

今回は格別目的もなくコースを決めてしまったため、七ツ森などもただ通過してしまった。この辺まで来て、何も記録が残らないぞ・・・と思い始めた。折良く、道がクランク状になっている突き当たりで目立つ上に、立派な門構えだったので、写真を撮るために立ち寄る。仁王像などもなかなかの迫力だった。

朝の気温は24度くらいで、やや曇っていたこともあり、3シーズンもののジャケットで快適だったのだが、このあとつらい目に遭う。
A同じく。

最近の建築物や装飾にはこういうものはほとんど見かけない。昔の家は、欄間などにもこういう意匠がたくさんあった。
採算を考えたら、合わないんだろうな。彫る人も少ないに違いない。
飛び出しているのは獅子(多分)、欄間のような部分の彫刻は竜。
B347号線沿いの渓流。

 この道は冬季閉鎖となるせいか、途中で路肩が崩れていたりするせいか、とても空いた道。渓流沿いに快適なワインディングが続く。

 地図が見にくくて道を間違え、47号線まで行ってしまってから引き返して347号へ。47号ではこう楽しくは走れなかっただろう。
 ツーリングマップル(1/13万)は行程全体を決めるには細かすぎ、曲がり角など細かいところを確認するには大雑把すぎる。道を間違えたのを地図のせいにする。
C347号線、尾花沢市郊外の丹生川

小野田町のコンビニで買ったおむすびとお茶で朝食。水遊びには絶好のロケーション。この辺りから日差しが強く、暑くなる。宮城側より温度は高いようだ。メッシュジャケットで来なかったことを後悔し始める。9:30ころ。
D村山市、あらきそば

 あらきそばというお店で昼食。11時(開店)少し前についたが、後から後からお客様が来る。帰る頃には何人か順番待ちのお客様が居た。
 ここは、昔の民家をそのまま使っているらしい。襖を取り去って一部屋にした座敷に小さい卓が並んでいる。敷居や柱の木目は磨き上げられすり減り、つるつるになっている。なかなかの風情だ。
 外へ出ると、CB750とMajestyが並んでいた。それぞれ別々のツーリング途中。
Eあらきそば

 蒸し暑い日本の古い家は、障子1枚で内と外を隔てる作りだった。障子を開け放つと東屋にいるがごとく風が通り抜ける。
 あらきそばのお店も、古い伝統的な日本の家だ。かやぶきの屋根で、日差しの熱を通さない。葦簀を降ろし、照り返しを避ける。中にいると、不思議なほど涼しい。
Gその後(写真無し)

 この後は48号線をいつものルートで仙台市へ。定義山方面、大倉ダム経由で帰った。山形市の気温は32度くらい。仙台側は若干低かったが、どっちにしても暑いの何の。気が遠くなりそうだった。あらきそばを出るとき、Tシャツ1枚で走ろうかとも思ったが、一応安全のことも考えて、無理矢理羽織った。私の3シーズンジャケットは風を通す機能が付いている。が、これは表地と透湿防水フィルムの間を通す作りなので、体を直にはクーリングしてくれない。真夏には何を着ていても暑いが、それにしても失敗だった。つい2W前にメッシュジャケットで寒さに震えたのだが、あつものに懲りて・・・と言う奴だ。逆だけど。
 
 347号で山形に入る辺りのワインディングの左コーナーで左バンクさせていたら、ガリガリとどこかを擦った。ステップについているバンクセンサーではない。家に帰って調べたら、アンダーカウルを削っていた。何度治してもカウルを割ってしまうのだが、それはこういうことだったのか・・・。リアサスがへたっていたり、カウルそのものにも歪みがあったりするのだろうが、何の為のバンクセンサーだ?これからはカウルをはずして走ろうか・・・。

13:30ころ帰宅。走行約270km。

あらきそばの他、山形のおそば紹介については、ほんの一部だけどここに。
http://www.jreast.co.jp/tohoku/trad/soba/murayama.html
Fうす毛利と鰊のみそ煮付け

メニューは板そばの「うす毛利」と「むかし毛利」しかない。「毛利」は「盛り」のことだと思う。どう違うのか分からないが、この日は「うす」しかなかった。「うす」が700円「むかし」が1300円とのことだから、量が違うのかな?休日の混む日は少しでも多くの人に出すためにそうしているのだと勝手に解釈している。
 山形で一番太くて堅いと言われる本格的なそばで、家で食べる乾麺のつるっとしたそばとは全く別の食べ物だ。そばを噛み(すするのではない)、そばそのものの香りと味を楽しむ向きには最高では?詳しくないから何とも言えないが・・・。私にはとても美味しかった。
 また、付け合わせに鰊の味噌煮を勧められた。メニューにあるのは知っていたので、迷うことなく注文。いざ出てくると真っ黒な得体の知れない物体でびっくり。でもうまそう。食べてみると、これが実際うまい。朝食を9:30まで引っ張ってしまったせいもあり、これで満腹。
 なお、写真の板そばが卓からはみ出ているのは、斜め前に座っている方の邪魔になってしまうから。この状態で食べてました。