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今年の夏(2006年8月)家族で帰省の折、和倉温泉と能登島を観光した。和倉温泉はかつて泊まったことはないが、能登島は四十数年前の中学時代夏に合宿した体験がある。その合宿体験は今、苦い思い出として残っている。合宿当時、予科練上がり(終戦時、予科練予備学生)の理科の先生がいた。戦後何年も経っているにもかかわらずその先生により、まるで島の分教場で疎開体験のようなことをさせられた思い出があるのだ。合宿後、二度と訪ねまいと思ったのである。だから、この能登島を家族で訪ねようと言う話が出たときあまり気乗りがしなかった。でも家族には嫌だとは言ってない。こういう理由だからと家族に話したところで判りもしないだろう。また傍目から見るとおろかな話ではある。そうした苦い体験のある能登島を今回訪ね、当時と変わらぬ海の美しさ、緑や空、雲を知った。思い出は思い出として訪ねて良かったと思う。ここでは、そんな苦い思い出も含めて今の能登島のことについて書いてみた。 |
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志乎・桜の里 七尾線に乗り換え和倉温泉へと向かうとき見た。 羽咋市(はくいし)にあり、この辺りの情景を 大伴家持が万葉集に次のように詠んでいる。 志乎路から ただ越えくれば はくひの海 |
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能登島観光地図(現在) 和倉温泉で泊まった宿の若女将に、朝出発するとき向田の小学校で合宿した話をし訪ねたいと話した。当時 とすっかり変わって木造校舎はないと言う。統合され立派な校舎になっていると聞いた。この地図は、気を 利かせて事務所から持ってきてくれた観光地図。 |
能登島の苦い思い出 |
能登島大橋もなく、艀が能登島と和倉温泉を結んでいた時代のことである。当時中学に理科クラブというのがあった。人員も少なく何をやっているのか本当のことは知らなかった。そんな中学3年生の春、友人の一人から能登島の理科学習合宿のことを聞いた。毎年理科クラブの生徒だけで実施していたのを、年月を経るうち広く全校生徒に参加を募ったものである。当時プールはあったが海水浴がまだ主流の時代である。それで夏ともなれば何度か私も電車に乗って海水浴に出かけた。そんな時代であるから、海の村に三泊するということは生徒にとって、理科の学習以外で魅力のあるものである。「美しい透明度の高い海で、波静かで、サザエとかウニとか獲れるんだ・・」と友人が勧誘してくる。そして友人が一人合宿に参加すると言い出し又一人と増え、ついに自分も参加することに決めたのである。 合宿のある8月に参加したのは全校で30名ぐらいだったろう。理科クラブ員数5〜6名だから多人数の参加である。実はこの合宿の主目的が理科学習でなく耐乏訓練の一環であることを後で知るのである。しかし、このとき私は、ただ海の生物獲りと顕微鏡観察をイメージしていた。 当時、和倉温泉からは艀で30分ほどかけて能登島半浦に着いた。ちょうど今の能登島大橋のルートである。半浦からバスに乗り山沿いを右に左に廻りながら登って行く。そして山を下り、目的地の向田の小学校へと着く。向田の小学校は夏休み中で、それを4日間地元から合宿目的で借りたのである。ここへ着くまでの道路は舗装されておらずまた幅が狭かった。窓を開け暑い中を揺られてきたのを何故かはっきり覚えている。乗車している時間が本当に長かった。その晩は、荷物を居室にまとめる作業をした後、メニューはカレーだったと思うが夕食をし、明日具体的な説明があるということを聞いて就寝した。 合宿生活は朝6時起床から始まった。朝食7時まで全員が洗顔と用を足す。このとき水の制限があるのを始めて知る。水の制限は、干潮時、満潮時の影響で海水が飲料水に混ざりこむのが理由である。朝食メニュー(朝昼ずっと合宿中同じメニューとなるのであるが)は、握り飯2個、沢庵2個、ナスの入った味噌汁である。時たま佃煮がついて出た。学校側は、この食事について献立を事前に父兄に知らせた上で、生徒を参加させたわけではない。よって生徒は知らなかった。それで最初びっくりした。このことで、誰もが尋常ならざる合宿であることを知ったようである。副食内容はともあれ、中には農家育ちの生徒なんかは握り飯を4つぐらいは食べたかった者もいたようである。体育館の板の間に高さ30cmほどの長テーブルをずらっと並べそれに生徒が向かい合って座り、全員合掌して食事となる。自分には経験がないが戦時中の疎開の一コマのようである。無論想像である。食事が終わると一日の予定が先生から説明された。 8時半になると校庭に全員出て準備体操が始まる。これが終わらないことには海に入れないのである。だらだら体操をする生徒がいると最初からやり直させられた。この合宿には先生が5人参加していた。理科学習の一環であるので、生物(担当)の先生と物理化学(担当)の先生がいた。生物の先生は二人で教育委員会付属理科センターの先生である。その他には数学の先生と保健の先生(唯一の女性)である。今でもはっきり覚えているが体操の時、壇上で指揮を執るのが物理化学の先生だった。声が非常に大きかったことを覚えている。この先生、予科練予備学生出身であることを後に学園祭のときに知った。 体操が無事終わると全生徒が列をなして坂を下り海に入る。海底は砂地で5mぐらいの水深、透明度が良く、太陽が射しているときはエメラルドグリーンの海中の遠くまで見渡せた。この情景は全く音のない世界で初めての経験だった。それで今でもすごく印象に残っている。沖まで来ると岩が所々ににょきにょきと立っていて海面に顔を出していた。11時まで泳いで岩の間にいるウニやサザエなどを獲る。実はこれを目的に来ている生徒もおり中には岩の上でリール竿を垂らして釣りをする生徒もいる。当初、岩に足をついて休憩するので、布製の足袋をつけるよう皆指示されているのだが、ゴム製の足ひれとシュノーケルを装備して参加している生徒もいた。この辺になると理科学習の意味が何なのかまったく判らない。先生たちは、事前の注意ごとも無視して参加している生徒をただ黙って目を瞑っているようであった。 11時を過ぎて陸に上がり宿舎に戻る。自慢深げに獲物を披露する生徒もいる。理科センターの先生は海水をプレパラートに取り微生物をスケッチしていた。海に入らない何人かの女子生徒は先生の説明を聞きながら顕微鏡を覗いてスケッチをしていた。本来ならこれが理科学習に当たるだろう。そうして午前中の日程が終わった。 お昼になるとまた長テーブルを並べて朝食と同じメニューが並ぶ。日中は喉が渇くので水が飲みたいのであるが、それができなくて本当に辛い。誰しもがそうであった。割り当てのぬるい麦茶だったかほうじ茶だったか(一人湯呑二杯だったと思うが)、それを飲んで昼食を終える。昼も水道水は海水が混ざるので利用できないのである。 午後は1時半から、同じように海水浴が始まる。物理化学の担当の先生が大きな声を張り上げて準備体操となる。午前中に泳ぎすぎた生徒もいるが「体の調子が良いようなら積極的に海に入るように」と数学の先生がしつこく声をかけていた。そうは言われても、まあ最初の半日でどんな感じか生徒も判るようである。サザエやウニを一杯獲って満足し陸におさまる者、獲れなくて再チャレンジする者、・・色々である。私はウニやサザエよりも他の生物を求めて友人と一緒に潜ることにした。 午後2時ぐらいは一番波静かで海水が暖かである。友人と相当遠方まで泳ぐ。北の能登半島がすっきり見える。沖に来ると岩がほんとに多い。午前中はこの辺りでもシュノーケルをつけて潜る生徒がいたが、午後はいなかった。きっと興味半分できている生徒にとっては半日で終わりということであろう?あるいは疲れが出たのだろうか?午後の海水浴が終わって陸へ上がる。 ほぼ一日の研修がこうして終わる。でも実はこれから嫌なことが起きた。体の塩を落として全員着替えるのであるが、当然水道水が出ない。それで何をやるのかというと、運動場と反対側の庭にある井戸から真水を掬い体に掛けるのである。物理化学の先生が先導し、井戸の前で全員並ばせバケツの水を柄杓で少しずつ掛けてくれる。この島では井戸の水とて貴重な水である。でも、このことを陸地育ちの生徒たちは信じられなかった。井戸の水は涸れないものと生徒は皆親元で体験しているのである。水に不自由なく育っているのだ。こうして一人ひとり先生に水を掛けて貰って体の塩を洗い流す。しかし、30人もいると先生も大変である。「時間も掛かるから、後はそれぞれ自分で掛けてくれ」となった。そうしたらどうしたことか、先ほどから黙って並んでいた生徒の列が崩れ、我先にと柄杓を掴もうとするのだ。もっと驚いたのは、級長の連中が先に水を掛けている。発言力の強い奴が先に事をなすのである。これを良かれ悪しかれリーダーシップと言うのだろうか?手腕のある奴、あるいは面倒見のいい奴を級長に選んでいるのは誰しも間違いないことである。全く競争というものを知らない時代のこと、田舎育ちの純粋な者からみれば裏切られた思いであった。物理化学の先生が、笑いながら後の生徒のことも考えあまり派手に使わないようにと注意するが、何食わぬ顔である。世の常であるかもしれない。私の番になった。柄杓でいちいち掛けるのも面倒なのでそれだけの分をバケツのまま胸と背中に掛ける。時間も掛かるのでそうしたのであるが、先生に「おいっ派手に掛けるなよ。表面積の多い者は水を多く使うからな・・」と言われた。当時私は、体格がいいという方で決してなかったが際立って生徒の中で身長が高くひょろりとして目立ったようである。これは音無しさと別である。生徒は誰も塩を流したいと真剣な目をしている。実際自分も生徒も渇水経験がないことから水道水が使えないことと井戸の水がなくなるのではないかという不安がよぎった。今思えば笑い話である。 夕食までは自由時間である。居室に戻って将棋やトランプゲームなどをする生徒もいれば、体育館で海水生物を顕微鏡で調べる生徒もいる。私は、友人とビンに詰めてきた海水をプレパラートに採って顕微鏡で調べることにした。何故か能登島で覚えているイメージの一つにこの顕微鏡の中の世界がある。顕微鏡を覗くと動物プランクトンや植物プランクトンの類が見つかった。 このような日程を三日過ごして能登島を後にした。解散となり家に帰って、先ず冷えた水を何倍も飲んだことや風呂に入ってシャンプーで頭を洗い直したことを覚えている。これが私の能登島での苦い体験の思い出である。 能登島であったことがどういう意味を持つのか?また物理化学の先生がやろうとしていたことや何を見せようとしていたのか、何を体験させようとしていたのかが、当時判らなかった。でも人間、徐々に社会経験を積んでくるとそれが判ってくるものではある。当時はのどかな時代で生徒は田舎育ちの誰も彼も純真な子達が多かった。中学を出てすぐ都会へ集団就職する子もいたそんな時代でもある。何でも起こりうる社会では、唯々純粋なだけでは生きていけないということを教えようとしていたのかも知れない。究極に陥るとルールが崩れることもあるのを教えようとしたのか?あるいは、それをどう捕らえ自ら正して生きていくのかを考えさせるものであったのかも知れない。今いろんなことを想定してみるのである。 |
能登島観光一日目――和倉温泉泊 |
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中学生時代の苦い思い出を、胸に収め家族と能登島観光へ出発する日である。東京から、9時前の上越新幹線に乗り越後湯沢へと向かう。越後湯沢からホクホク線に乗り換えて在来線で終点の和倉温泉まで行く。東京からだと和倉温泉まで7時間ぐらいの旅である。津幡から七尾線に入ると結構スピードが落ちるのでそうなるのかも知れない。どちらかと言うと長旅である。15時を過ぎてようやく和倉温泉の宿に着き、この日は家族皆ゆっくり風呂に入ることにした。和倉温泉は、昔白鷺が足をお湯に入れているのを住民が発見し温泉を開拓したとの言い伝えがあるそうだ。始めて知ったが何とも風情のある話である。 息子と二人、まだ入浴客のいない温泉にじっくり浸かる。その後家族でいつもより早めの夕食をとる。和倉温泉は温泉としても有名であるが、海鮮料理がまた豪華である。その豪華な料理の中でも今回はちょっと贅沢なメニューを予約しておいた。まあそれもいいだろう、かつて中学時代合宿で能登島に来たときは、海の幸とはおおよそほど遠いメニューのものしか食べられなかったのである。苦い思いをしたこともあり子供たちには東京で食べられないほどの新鮮な北陸のものを思いっきり食べさせてやりたいと思ったのである。夕食では富山名産の甘エビもテーブルに並んでいた。能登の海が周りを囲み富山湾や輪島沖、石川湾などから種類の違った海産物が入荷するためかもしれない。海の幸には本当に恵まれている。子供たちも食べきれないほどの海の幸に満足した様子だった。 |
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能登島大橋でタクシーの中から見た和倉温泉 温泉街は、中学当時こんなに沢山ビルが建っていなかった と思う。それもこんな高層ビル群が・・・。
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向田のガラス工房駐車場横から北側を見た風景 海原と雲は変わりなく美しい。
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能登島観光二日目――向田 |
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二日目の今日は、ちょうど昨日台風が日本から離れて行った後である。朝から太陽が光っている。雲もなく暑くなりそうだ。宿からタクシーを呼んでもらい向田の能登島ガラス美術館まで直行する。向田には能登島ガラス美術館の他、新しい観光施設としてたくみの里−能登島ガラス工房が現在建っている。また付近の北の岬には能登島臨海公園水族館、家族旅行村Weランドがある。向田は観光的にも中心部のようである。 和倉温泉を出て能登島大橋を渡った。能登島は中学時代に合宿で来たときより観光開発が進み、またこの能登島大橋と併せ連絡橋が二本も掛かっている。便利になったものである。ただ艀で渡った当時と海や能登半島の自然風景は変わりない。能登島大橋から和倉温泉のほうを眺めて同じような自然風景を思い出した。艀だと30分ぐらいかかったが車だと快適で気持ちのいいルートである。交通量の多さがそれを物語っている。あっという間に橋を渡った。 そして当時と違うアスファルトの道を右折左折しながら登っていく。山沿いに入るとアスファルト舗装になっているが、所々に白壁の家や農家の納屋などが見えたりする。これだけは変わってない感じだ。海も見え懐かしい風景である。当時、バスは砂埃を上げてこのような曲がり道を走った。窓から風を入れ、汗を拭き拭き揺られて乗っていた記憶が蘇ってきた。
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向田のガラス工房駐車場横から西側を見た風景 中学時代に来た当時は、こんなに家が沢山なかった。
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向田の能登島ガラス工房 小学校跡の木造建物のようでもあるが?蔦が絡まって いい雰囲気、白い壁に晴天の夏空が印象的。
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向田へは山を登って下ると着く。向田に着くと覚えていた風景が飛び込んできた。前に海岸道路があり遠浅の海があり岬があって水平線の向こうに雲の見える風景である。アスファルト道路以外はほんとに変わらない風景であった。ただ護岸が当時より高くなってテトラポッドが積まれている。また民家は当時白壁の家が多かったがモダンな民家が増えたようである。この家々の中にあった小さな小学校で合宿したのであるが、当時の木造校舎はないと和倉温泉の若女将に聞いたからすでにないであろう。 先ず、皆で能登島ガラス工房へ入ることにする。能登島ガラス工房は木造の建物で相当古く、広い建物も含めて敷地にまとまって建っている。白いペンキが塗られて蔦が絡まっていた。この建物がかつての小学校の跡であることを期待する。しかし、如何せん年月が経ち過ぎていて特徴も何も覚えていないのである。でも浜から近いところにあり周りに比べ大きな建物の体育館があったので可能性はあるかも知れない。屋根には建物を改造したらしい吹き抜けのようなものが付いている。中ではガラス職人が数人暑い熱風の中で作業を行っていた。もと何という建物だったか?聞いてみれば良かったと今なら思えるが、でもそのときは、この暑い中で汗を垂らしながら忙しく作業をしている職人さんにとても聞く気になれなかった。真剣な表情でとても気を抜く作業ではないと感じたのである。ガラス工房の東側には、ガラス工房で作られたガラス工芸品が沢山並んでいる。この建物は木造でなく新しい建物である。周りがぐるりとガラス窓で囲まれ光が差し込んで、中がとても明るい。展示品がさらにその光を受けてさまざまな色を見せていた。 |
向田の浜へ降りるとき見つけたナデシコ 七尾北湾の風を受け静かに揺れていた。地元の人が植 えたのであろう。合宿当時も見かけたような風景である。
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向田の浜 道路へ降りて見た浜、海底が透き通って見える。波も 静かで当時と変わらない風景である。
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ガラス工房の南側には道の駅と掲げた大きな建物で、一階がみやげ物売り場、二階がレストランとなった新しい建物がある。子供たちは友達へのお土産をここで選びたいというので中に入って行った。まあ中の方が涼しいから、ぶらりと見て廻るだけでも良いだろう。私はこの間、向田の浜へ下りてみることにした。アスファルトが多く陽を遮る木も道路脇にないのでまともに夏の太陽を浴びる。中学時代の合宿では砂利道の脇に松等の木が生い茂り、日陰があったような気がする。今は道路脇に駐車場が繋がり、広い道路が浜へと降りていて変化しているのだ。その暑い中を道路脇に沿って海岸に下りるとき、土地の人が植えたらしい花畑を見つけた。小さな土地で崖のすぐ上にある。ここに立つと浜辺の道路もよく見渡せる。また弱い風が海から吹いて来るのが判る。ここには、わずかであるがナデシコの花が他の夏の花と一緒に咲いていた。合宿で来たとき、同じような漁村の畑に野菜が実り花が咲いていたのを覚えている。その風景と、この一角とは何か似ているような感じがした。 道の駅の建物の西側は小高い丘になっていて能登島ガラス美術館がある。1982年にガラス工房が誘致され「新しいガラス工芸が息づく島」として注目され1991年ガラス芸術の情報発信基地を目指しガラス美術館が開館したそうだ。14名の作家が制作したガラス彫刻が、屋外展示場に常設展示されている。ガラスの板の向こうに見える能登の海や島や能登半島の北の山々!透き通って幾重にも見え面白い。合宿で来たときには、このような高いところからこうして海を見晴らすこともなかったし、第一そんな余裕もなかった。また山には木が生い茂っていたように思う。 |
ガラス美術館 ガラスアクセサリなどのショップと海を見ながら お茶を飲めるカフェもある。
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ガラス美術館の前庭(屋外展示場) ガラスのモニュメントを透かして能登の海が見える。
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しかし、こうして高台から眺めるとほんとに美しい。こんなに水平線や棚引いた雲が美しいとは思わなかった。四十数年前の苦い思い出が一掃されるようである。たまたま台風が行った後の晴れ渡った空に出くわしたので素晴らしい風景が見られたのかも知れない。でも今度だけはまた来たいと思った。こうして暫しの間、満足の行くまでディジカメに海原の写真を何枚も収める。 子供たちが土産を買い終わり私の方へ向かってきた。いいお土産が皆見つかったようである。それから皆でガラス美術館に入る。美術館内部は、光のトンネルの展示室ほか天井のプリズムガラスが光を通す展示室などがあり蛍光灯の光以外に外の光が差し込むような構造になっていて幻想的であった。廊下が板ガラスになっているところもある。一言で明るいイメージである。展示作品には、国内のガラス工芸家、美術家によるものや有名なピカソなどが制作した彫刻をモデルにガラスでそれを制作した外国のガラス工芸家のものなどがあった。展示即売の品々も用意されている。更に展示品にはどれも個別に光が当てられガラスの中に差し込む光の屈折の美しさが醸し出されていた。 お昼を過ぎたので家族で道の駅の二階のレストランで食事をすることにする。そして、しばらくそこで時間を過ごし能登島を後にした。 今回の旅は,家族と自分とでちょっと違う旅となった。子供たちは初体験の能登島に触れる旅である。昨日、和倉温泉で皆北陸の海鮮料理を食べたから満足しているだろうし、ここへ来て美しい風景にも遇えたからいい思い出になるであろう。自分にとっては、過去の思い出を打ち消せる旅となった。この能登島が美しい自然に包まれていることは四十数年前と変わりはない。しかし、今回は美しい上に何か‘明るさ’を感じたのである。 合宿した時代は、思えば高度成長期の時代でもある。当時、この島は飲み水も不自由であった。のどかさと裏腹に日本全体が貧しい時代であったと言えるかも知れない。その後高度成長を達成し、経済の困難を乗り越えんとして現在がある。今回そんなことも考えながら、振り返る能登島の旅ともなった。いつしか、またこの能登島を訪れることがあるだろう。 |
向田のガラス美術館から北側を見た風景 左にある建物はガラス美術館、草地には色々な ガラスのモニュメントが建っている。
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向田のガラス美術館から北側を見た風景 海原、水平線、雲と空の何の変哲もない 風景であるが、雲が美しい。
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向田のガラス美術館から北側を見た風景 水平線の向こうに能登半島北の山々が見えた。
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