(戦後半世紀を過ぎて・・・)

【序】この夏(平成38)帰省して,辻武治さん(大連朋友会に所属されている)の編纂された大連旧地図を母に見せた。この地図,戦後の様子が非常に克明に記載されている。只々,辻さんのご苦労に頭が下がる思いである。地図を見た母が,終戦後から引き揚げるまでのことについて記憶の蘇るままに聞かせてくれた。戦後の混乱期,女学校を卒業して伊勢町薬局に勤めたこと,遼東百貨店に勤めたこと,お世話になった中国人の曹さんから革靴をプレゼントしてもらったことなどを初めて知った。ここでは,その曹さんへのお礼と題して母の戦後を書いてみた。

 

1.伊勢町薬局のこと

 

母は,終戦の翌年3月に芙蓉高女を卒業した。繰上げ卒業ではない。ただ,このときから色々苦労が始まったのである。卒業しても就職口が無かった。戦後の混乱から廃業を余儀なくされる会社も多く,女学校を出たからといって直ぐに就職先が決まるわけではなかった。そんな中で母は,祖父の従兄弟が経営していた伊勢町の伊勢町薬局で生まれた子の守りをすることになる。

当時祖父の叔父は,東郷町でやはり薬局を経営していた。従兄弟も親の跡を継ぐべく富山の薬専を出てから大連に戻り,この伊勢町薬局を開いていた。祖父の叔父は,早くから大連に渡り薬局を経営する傍ら,いくつか事業を行っていた。 祖父が単身大連に渡った動機には,そんな頼れる親戚がいたこともある。

そんな祖父の叔父の手腕をもってすれば,戦後直ぐに経営が下向くことは無かった。そういうことで,祖父の従兄弟の店で子守りと手伝いをしてもらおうと就職の話が決まったのである。こうして母は,当時住んでいた芙蓉町から伊勢町まで約半年間通うことになる。職がなかなか見つからない中で,子守りと言えど幸いお給金をもらえるわけだから社会人には違いない。母は,責任を持って働いていることを次第に実感した。それで落ち込むことは無かった。生活はそれなりに充実した。そして子守りの他に薬の陳列の手伝いの仕事を覚えてくると急に忙しくなった。

 

2.遼東百貨店のこと

 

伊勢町薬局に勤務して半年が経った。そして,出入りしている曹さんと母は知り合いになる。曹さんのお兄さんは遼東百貨店で薬を販売している経営者で,曹さんは店員として働いていた。ある日母は,曹さんに遼東百貨店で薬の陳列をする仕事をして欲しいと頼まれる。その頃委託販売という,商売が流行っていた。百貨店や個人商店も委託販売店と化していたのである。百貨店や商店で陳列ケースを1日いくらで借り,人から預かったものを専ら日本人以外に売って販売価格の何割かのマージンを受け取る商売,これが委託販売である。戦後,職を無くした日本人は自分の持ち物を売って生活の糧を得るより方法が無かったのである。ケースの中には日本人が所有していた高級な装身具や着物などが置かれ安い値で売れた。女学校を卒業して花嫁修業をすればよかった若い女性もその店員となってケース脇に立った。遼東百貨店もこの類である。しかし,曹さんのお兄さんの店は専ら薬販売で,母は預かり物の販売はやらなかった。ただ同じフロアであったから,母もその委託販売をよく見ていた。

でも,若い女性が店員として立つショッピングフロアに集客し,物が売れたことは間違いないようである。はっきりと母は言っていないが,薬の分類も詳しいところに加え,ご多分に漏れず若い女性として店頭に立ったことから,曹さんの店でも売上が上がったようである。


浪速町伊勢町の詳細地図-昭和10年版&19年版(辻武治氏よ

り掲載許可)浪速町は,今天津街となっている。伊勢町は友

好路,吉野町は吉慶街,大山通は上海路となっている。

旧伊勢町(辻武治氏編:回想大連寫眞帳より掲載許可)----西広場

から来た通りで,ここも多くの店があり賑わっていた。右側の店は

双増自転車店で右に入ると駿河町である。

 

 

旧遼東ホテル(辻武治氏編:

想大連寫眞帳より掲載許可)

--1階は遼東百貨店,2階から

上が遼東ホテルとなっていた。

 

大山通突き当りが旧大広場

(中山広場)で高いビルが遼東

ホテル。ここから右に入ると

旧浪速町3丁目。この通りの

並びには満書堂,服地の豆塚

商店,宅の店,バイカル毛皮店

,ばんぎや等があった。

 

 

看看大連のホームページを作成されている去来川さんから写真をいただいた。大連飯店(旧遼東ホテル)は健在。1,2階はスーパー(食料品店)で,その上はホテルとなっている。(20039)左側の大通りが,旧大山通である。

下に小さく見える建物が大連飯店。周りには,高層ビルが建つ。(20039)手前の通りが,旧大山通である。

母が遼東百貨店で働き出すようになって,薬の陳列に明け暮れる忙しい毎日が続いた。薬はよく売れた。薬は需要があるというのでそのとき母は,将来薬剤師になろうと思った。もちろん親戚筋の薬局経営を目にしていたこともある。この話はずっと以前にも聞いた。でも引き揚げてからは事情が変わって薬剤師にはなっていない。差し迫った生活の糧を直ぐ得なければならなかったことが大きな理由である。

 

3.曹さんのプレゼント

 

今度の遼東百貨店では,子守りがてらの親戚と違い,きちんとした勤め人である。委託販売という商売が流行っていたとき(休店などあったか定かでないが),毎日母は男物の靴を履いて通勤していた。この靴は,祖父が満鉄時代に履いていたものを改造して作ったドタ靴である。物資が枯渇しているので,しょうがなかったのである。

ある日,それを見かねた曹さんが,母に新しい女性用の革靴を買ってプレゼントしてくれた。この靴こそが,母にとって希望の品になるのである。日の光をぴかっと受けた革靴を履いて歩くと,母には戦後の大連の街がまるで新しい場所のように感じられた。まさしく光が靴元からやってきたという感じだった。曹さんへの感謝の気持ちは,靴をもらったこともさることながら,この希望の光を与えてくれたことに対する方が大きかったかもしれない。戦後半世紀を過ぎた今,母から「有り難かった。」と聞いた。偽らざる気持ちである。その光がずうーっと,脳裏に焼き付いて引き揚げ後も,頑張ってやって来れたと言う。

 

4.引き揚げ

 

戦後2年経って,いよいよ日本へ引き揚げる日がやってきた。それまで祖父は,満鉄の関係で大連港で引き揚げ船への乗員の誘導もした。圧倒的な引揚者の波に押されて機械にぶつかり胸骨を折る怪我をした。そしてその後は大石橋へと単身赴任である。また期間は短いが祖母の入院などもあった。家族には色んな苦難が降り掛かった。

しかし,そんな苦難も時が解決してくれる。祖父,祖母,,と叔母が揃って帰国できることになる。引き揚げは昭和22年の春のことである。大連港埠頭では,曹さんが見送りに来てくれた。ほとんど思い出の品は置いてこざるを得なかったが,母は唯一曹さんからもらった革靴を履いて引き揚げ船(第一大海丸)に乗り込んだ。新しいステップを踏み出すがごとき気持ちでいたかもしれない。母も曹さんに手を振り続けた。

船が桟橋から離れるとき,母の脳裏をよぎったものは何だったろうか?大連で生まれ,戦争が激化するまでは何不自由の無い生活である・・。きっと戦後のことよりは,その幼少時の思い出が込み上げてきたのではなかろうか?戦後の混乱で経済的にも打ちひしがれていたとはいえ,そこは生まれ育った街であることに変わりは無い。船上で母の脳裏に浮かんできたものが,仮に幼少時から見ていた建物や自然風景そのものであったなら,きっと“郷愁”めいたものが込み上げてきただろう。

 

5.祖父の里

 

佐世保への航海中,母はこれからのことが心配になった。幼少時は日本に渡ったこともあるが,数えるほどしかない。そんな住み慣れぬ祖国であり,しかも戦後のことでもある。そのことが言いようも無い不安となって残った。

佐世保に入港し,列車で富山の祖父の里へと向かう。船から降りると,そこには想像を超えた風景,人並みが飛び込んできた。だから母には祖父の里へ着くまで,やはり不安がこみ上げたようである。疎開することも無く生活していたのであるから,周りの生活習慣も違って見えた。まして引揚者となると人の目も違う。そのことを母は感じた。

列車は座席に布が無く板張りであった。長い長い旅路を一駅行っては停まる鈍行で,何日もかけて祖父の里の駅へと着いた。何も無い小さな駅に,祖父の両親だけが迎えに来ていた。リヤカーが一台砂利道に停まっていた。寂しい出迎えである。母には,ただ大連より暖かい,四月の陽が優しく感じられた。里の家へ家族揃って入ると,大きな屋敷が親戚じゅうで埋まっていた。それぞれの家族一員づつが荷物を持ち込んでいるので荷物を置けば座るところも無いぐらいである。でも,とにかく身を寄せる祖父の親元があったことだけは有り難いと母は思った。隣近所も引揚者や都会で焼け出されてきた人が居る家は皆そうだった。皆睡魔に襲われて寝込んだ。荷物があるので膝を曲げた状態である。家族全員が目が覚めたのは晩のことだった。この晩は折から村の春祭りの前夜で,近所からの来客があった。そのことは,家族全員に,少なからず懐かしさと一時の安堵と平和を感じさせた。大きな笑い声があちこちで聞こえた。土の玄関には,親戚じゅうの大人や子供の靴や草履が所狭しと並んでいた。砂利道を歩いて少し汚れた母の革靴もそこにあって目立った。月の反射を受けて光っていたのを母は覚えているという。大きな庭の上を見ると晧々と月が出ていた。こうして一晩が明け,生活のための苦労の道が家族に始まることになる。

 

6.曹さんへのお礼

 

曹さんの靴は私が小さいとき下駄箱にあったのを見た。祖父の里を出て,祖父,祖母,母,叔母が全員で昼夜となく働いて土地を買い木材を買いようやく建てた家の下駄箱である。曹さんの靴は,黒色で革紐が足の甲の所をステッチ状に巻いており,革のリボンのデザインが付いていた。

曹さんは,今元気でおられるかどうか,母は判らないと言う。母にとって戦後,曹さんからもらった革靴が支えになったことは間違いない。ずっと話を聞いてそんなことを感じた。母からも,私からも曹さんへお礼を述べたい。曹さん有り難う。【完】

 

 

 

額縁: こだわりへ