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2002年1月1日発行 No.403 巻頭言より

「新年の目標」
                                         島  隆三

 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」  (エフェソ5・21)

 新年に与えられた教会の聖句である。
 主題は、昨年に引き続いて「教会の交わり」で、すでに何度も申し上げているように、教会の交わりは、神との交わり(縦)と私たち相互の交わり(横)である。どちらも大事であって、一方が欠けては教会の交わりにはならないが、縦の交わりは横の交わりに先行し、前者は後者の土台であるという意味において、より重要であると言えるであろう。
 今年の聖句は、この両方の交わりについて大事な点を示している。縦の交わりはキリストに対する畏れ、横の交わりは互いに仕え合うことである。


   キリストへの畏れ
  キリスト教信仰に狎れ狎れしさは禁物である。神が私たちを深く愛しておられることは間違いないが、神は私たちとは異なる聖なるお方である。私たちは、キリストの十字架の贖いと聖霊のとりなしによって「アッバ、父よ」と祈り得るのであって、このことを忘れて神を友達のように考えるべきではない。 
 よく訓練され整えられた礼拝に出席すると、ピーンとした心地よい緊張感が漲っている。.礼拝が神との交わりであれば、当然そのような緊張感があるはずである。賛美も、祈りも、また、聖書朗読も真剣であり、神に捧げるにふさわしいものである。説教もむろんそうである。ユーモアも何もない堅苦しい説教という意味ではなく、時には和やかな笑いも必要だろうが、しかし、誰かが言ったように、説教は御前講義ならぬ御前説教であることを忘れてはならぬ。中田重治の説教は、時に会衆を抱腹絶倒させたが、罪を責めるときには震えるほどの怖さを感じたと聞く。それは人間の話術を超えた上よりの権威ではなかったろうか。説教ばかりでなく、中央福音伝道館の戸を開く前には、黙祷して心の帯を締めなおさなければ入れなかったと、渡辺善太は記している。聖なる畏れが伝道館に漲っていたというのである。それは、何よりも「神がそこにいます」という実感と事実から来ていたであろう。これこそ教会の本来の姿であり、これが失なわれて、教会が単なる人間の集団になり下がるならば、「塩味を失った塩」である。
   互いに仕え合う
  神への畏れを土台として、私たち相互の交わりに「互いに仕え合う」という心が自然に芽生えてくる。フィリピ書に教えられるように、「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考える」(2章)のである。
 私が高1の時だったであろうか、学校の先生にきつく注意されたことがある。「君の言い方は他人を馬鹿にしたようなところがある」と。自分では、決してそんなつもりはなかったが、親しい仲にも礼儀ありで、親しい故に相手への尊敬を欠いていたのではないかと反省する。いまだに、その一言を忘れない。.主イエスの他者への言葉は、誰に対しても相手を掛け替えのない人格と見る真摯なものではなかったろうか。
 言葉は大事である。しかし、「口からは、心にあふれていることが出てくるのである。」(マタイ12・34)。私たちは、人を直接見るのではなく、主イエス・キリストを通して見たいと思う。主イエスがその人をどのように見ているかと考えるのである。そして、互いに仕え合うことができたなら、私たちの人間関係は変わる。家庭では、夫婦、親子、兄弟の関係が変わり、教会では、兄弟姉妹の関係が変わるに相違ない。
「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」(詩19・14、口語訳)


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