「あなたがたを愛すれば愛するほど、
わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。(コリントの信徒への手紙二 12・15)
これはコリント教会に対する使徒パウロの嘆きであるが、神の私たちに対する嘆きの言葉でもあるのではないか。
人を愛するとは、その人のことを深く思い、その人に関わって行くことである。パウロがコリントの教会を深く思い、その現状を見聞きするに及んで、じっとしてはおれない気持になって忠告もし、手紙を書き、また、自ら赴いても行った。しかし、その結果、事態はますます深刻になるように思われた。ここに愛のジレンマがある。コリント教会への手紙には、親が子供のことを心配し、なんとかしなければならないという必死の思いが伝わってくるが、同時に、パウロの思いがどこまで彼らに通じたのであろうかというもどかしさも感じる。(親の心、子知らず)
教会でも家庭でも、どこでも言えると思うが、人と深く関わろうとすると必ず問題が生じる。それがいやだから、私たちはつい身を引いてしまって、人と深く関わることを避けてしまう。教会のことを例にあげれば、人は顔がみんな違うように、十人十色である。考え方も育ちも趣味も全く違う人たちが、共に集まって礼拝を捧げているのである。礼拝を共に捧げるところまではよいが、さて、もう一歩互いの交わりを深めようとすると問題が生じてくる。そういうことをこれまでどれだけ経験してきたろう。ここに教会の交わりの困難がある。
それならば、教会の交わりなど、いっそのこと止めてしまったほうがよいのではないか、という人もあろう。しかし、それはできない。なぜなら、教会にとって、交わりは本質的なことだからである。互いの交わりがない教会は、教会とは言えない。しかし、その交わりが深まると問題が生じる。ここにジレンマがある。しかし、それは教会が誕生した昔から、避けて通ることのできない問題であった。
「最も大いなるものは、愛である」とパウロはコリントの教会に書き送ったが、及ばずながら、この愛に生きようとするのが教会である。愛は、前述の通り人と深く関わることである。だから、愛することは簡単ではないのだ。
ミシェル・クォスト神父は「愛は痛みだ」と言ったが、人間の真実を深く見抜いた言葉だと思う。この痛みを避けて、人を愛することはできない。傷つきたくなければ、初めから愛することは断念した方が賢明なのだ。だが、愛のない人生にどれほどの意味があるのか。人間として生まれてきたのは、人を愛するためではなかったのか。
けれども、悲しいかな、前述の「愛のジレンマ」を避けて通れないのが、また、人間の現実である。どうしたらよいのか。どこに解決があるのか。
結論的に言えば、イエス・キリストの十字架にある。キリストの十字架は、愛のジレンマそのものである。神の愛がイエス・キリストに結晶しているのに、キリストを受け入れることが出来なかった人間、その人間の罪が、主を十字架に追いやったのである。しかし、私の罪がどんなに大きかったとしても、罪を解決する十字架は厳然と立っている。人間の愛のジレンマを救うものは、このキリストの十字架以外にはないであろう。
教会の交わりの中にも、問題は尽きないが、そこにキリストの十字架が立っていれば必ず解決の道は拓ける。このレントの時、深く十字架の主を見つめたい。