「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから・・・悔い改めなさい。」(ヨハネの黙示録3・2、新改訳)
「我らの主にして教師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われる時、彼は彼を信じる者たちの一生が悔い改めの絶えざる連続であるべきことを言おうとされたのである。」(ルターの「九五ヶ条の提題」の第一条)
皆様の祈りに支えられて、「パウロの世界を行くトルコ・ギリシャの旅十三日間」を全うして帰ってまいりました。報告すべきことは山ほどありますが、ここにはこの度の旅行で一番印象に残ったことだけを書かせていただきます。それは一言で言えば、「神の憐れみと皆様の祈り」ということです。今度の旅行ほど皆様に祈られているということを痛感した旅はありませんでした。
旅行が始まって四日目に、シリアのアンテオキアでO姉が足を痛め、O兄姉は旅行を続けることを断念されて途中帰国となりました。残念なことでしたが、やむを得ないことだったでしょう。お二人を無事日本に送り返してほっとして間もなく、今度は私がサルデスの遺跡に転落して、皆さんに大変な心配をかけ、多くの祈りとご親切に与かりました。まさか、自分がこんな失敗をするとは思っても見ませんでしたが、そこに私の傲慢があったと思います。一時は私も途中帰国を考えましたが、不思議に癒されたことを感じて、何とか最後まで皆さんの後について行くことが出来ました。神の憐れみと皆様の祈りです。
帰国してサルデスの教会への手紙を繰り返し読みましたが、一つ一つの言葉が正に自分に言われているように心に響きました。いかに自分が傲慢であったか、神様から痛いゲンコツをひとつもらったように思いましたが、繰り返して読むうちに、ただ叱られているだけではなく、神の大きな憐れみがあることに改めて気づきました。それが冒頭の聖句です。
本来の意味は、あなたの行いが神の御前に不完全だから悔い改めなさい、という叱責でしょうが、新改訳では「あなたの行いが神の御前に全うされたとは見ていない」と、まだあなたのなすべきことが残っているという風に私には響いてきたのです。勝手な読み方とお叱りを受けそうですが、わたしは大きな慰めと励ましを受けました。そして、なぜあの時頭を打たないで、この程度で済んだかということの意味が分かってきたのです。こんな者でも、神様はまだ何かをさせようとして生かして下さったということです。トルコのドクターも、私の頭を調べながら「あなたは幸運だ」と言ってくれました。日本の医者からも同様のことを言われました。正に、神の憐れみ以外の何でしょうか。「聖霊の宮」(第一コリント6章)をもっと大切にして、いよいよ主と教会に仕えるものでありたく願っています。お祈りを心から感謝します。