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2003年1月1日発行 No.415
巻頭言より

新年の聖句
                                         島  隆三

 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。」
                                      (マタイによる福音書 16:18)


 新年は久し振りに福音書から講解説教をすることにしてマタイによる福音書を選んだ。西川口教会では、ヨハネによる福音書を数年前に取り上げたが、それ以来である。私事で恐縮だが、私が最初にまとまった講解説教(と言えるかどうか)をしたのはマタイ福音書の主イエスの山上の説教で、次がマルコ福音書だった。これは私にとって大事な学びとなり、今も大きな財産になっている。私の説教のスタイルはその時決まったように思う。以来、30年近く、殆ど説教は変わってないように思う。進歩がないのは淋しいが、説教者の説教スタイルは年齢に関係なく大体変らないのではなかろうか。近年はパウロの手紙を取り上げることが多かったが、若い頃は福音書から繰り返して語った。新年は気持も若返ってマタイと取り組みたいと思っている。
 さて、冒頭のみ言葉を今年の聖句とする。このくだりはマタイ福音書の分水嶺ともいうべきところで、有名なペトロの告白「あなたはメシア、生ける神の子です」に対して言われた主イエスの言葉である。このペトロの信仰告白の上に主イエスは教会を建てようと言われたのである。
 ここで大事なことは、まず、教会を建てるお方は主イエスご自身であるということである。人間が建てた教会はもろく不完全である。しかし、主が建て給う教会は永遠的で、陰府の力も対抗できないのである。過去二千年の教会の歴史は、多くの人間的な過誤や弱さに満ちている。しかし、その中にも、主ご自身が建てられた教会はいつもあったし、人間の失敗を超えて不動のものとして輝いている。さて、私たちはどうか。教会とは他ならぬ私たち自身であり、私たちの交わりである。主イエスご自身が建ててくださる教会になっているなら何の心配もない。
 しかし、立派な信仰告白をしたペトロも、この直後に主イエスにひどく叱られている。ペトロも弱かったのだ。だが、そのペトロを用いて教会の土台としてくださった御方は主イエスご自身である。だから、ペトロも絶えずその信仰を新たにし、深めていかねばならなかった。私たちも同様ではないか。
 第二に、教会は「わたしの教会」と言われた通り、主イエスご自身の教会である。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒言行録20:28)とも言える。教会はそのまま神の国ではないが、そこに神の国がある。それでこそ教会である。そのような教会を、牧師や信徒が軽々しく自分の自由になるかのごとくに考えるのは大きな誤解である。私たちは教会を大切にし、また、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努める」べきである(フィリピの信徒への手紙2:12)。
 最後に、「この岩の上に」の一句である。この岩をペトロ個人とする解釈もあるが(ペトロとは“岩”の意)、ペトロが弟子たちを代表して言った信仰告白を指すと解釈するのが正しいだろう。私たちは鈍く、理解も遅く、行動も危うい。しかし、それでも聖霊の助けと導きをいただいて、「イエスこそメシア(キリスト)、生ける神の子です」という信仰に立つことができるし、その信仰に生きることが許されている。そこに主イエスの力が働いて教会が建てられていく。
 私たちは何を優先順位として新年を生きるか。一年は短い。一生も短い。確かな土台の上に、永遠のみ手によって「きょう一日、この一年」を過ごしていこうではないか。

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