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2003年2月1日発行 No.416
巻頭言より

ディボーションの恵み
                                         島  隆三

 今年第10回を迎えた小牧者コンベンションが箱根の富士箱根ランドで開かれ、全国諸教会から牧師、信徒が集まり、よい研修の時を持つことができた。
 食事の時、私の隣りに若い姉妹が坐った。姉妹の話によれば、以前は埼玉県のある日本キリスト教団の教会に5年ほど所属していたという。しかしその後、姉妹の姉上が奉仕する小牧者訓練会の教会に導かれ、今はその教会で信徒献身者として生き生きと奉仕をしておられる。
 「今は前の教会の時と、どのように違うと思いますか」という私の質問に、
 「み言葉が自分の生活にしっかり結びついたと思います」と彼女。それは毎日のディボーションを通してということだった。
 私が日本キリスト教団の牧師であることを知っている彼女は、少し遠慮気味に話していたが、こんなことも言った。
 「私がこちらの教会に移って、主イエス様のすばらしさがだんだん分かってきたときに、前の教会のS牧師が本当に大事なことを話されていたこともよくわかるようになったのです」と。
 S牧師がどんなに大事なことを話しても、自分にそれを聞く耳がなかったというのである。この言葉には大いに考えさせられた。
 
 ディボーションの大切さ
 み言葉の説教は大切だが、おのずから限界もある。説教は会衆に語るものだから、個人個人に的確に届きにくい。さらに、説教を生活に適用するまでに至らないことも多い。どうしても、一人ひとりが日々の生活で、み言葉に教えられ、導かれる必要がある。
 洗礼準備会では必ず、信仰生活の「五つの務め」を語る。それは、聖書を読むこと、祈ること、礼拝を休まないこと、献金すること、証しをすること、以上の信仰生活の基本五ケ条である。これは、信仰生活をしていく中で大切であることは経験的によく分かることである。しかし、慣れてくると案外おろそかになりやすい。一食を抜いてもお腹がすいて体に応えるが、聖書は二、三日読まなくてもどうとも感じない。そこに落とし穴がある。
 また、主イエスのすばらしさも、初めからわかるというより、み言葉に導かれる生活の中で、次第に分からされ、またハッと気づかせられることが多いのではないか。
 しかし、み言葉と祈りの生活は口で言うほど簡単ではない。この度のコンベンションで講師の先生がたが繰り返し語られたことは、信仰生活にも訓練が必要だということであった。私自身もアシュラムに導かれて、ようやくディボーション(み言葉と祈りの時)が身についたように思う。
 しかし、佐久子先生の経験によると、「アシュラムは自分にとって大人だった」というのだ。それはアシュラムのやり方にもよるだろうが、アシュラム参加者の平均的な声かもしれない。
 み言葉が今一つ自分の生活に結びつかないという悩みが聞かれる中で、ディボーションスクールが開かれるようになった。今回も、若い人々を中心に多くの兄姉が参加されたが、ディボーションを続けている兄姉には輝きがある。ここに信仰生活の一つの秘訣がある。そして、教会の中の小グループで、その恵みを分かち合っていくとき、その輝きはさらに大きく膨らんでいく。
 さあ今年は、ディボーションに励もう!

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