2003年2月1日発行 No.416
「しるし」について(金田佐久子)
我が家では数年来牛乳からヨーグルトを作っている。何ごとも長続きせずまた横着者の私が、どうして熱心に作っているかというと(作り方が簡単なせいもあるが)召天した母が残したヨーグルトだからである。このヨーグルトを食べる時母の思い出とつながる。目に見えるヨーグルトを通して目に見えない母の思い出を確認している。これはひとつの例で、皆が何か同じようなものを持っていると思う。教会もまた持っている。聖書ではこの目に見えるものを「しるし」と呼ぶ。しるしは見えない神の存在を映し出す。聖書もしるしの書である。言葉を通して神を示す。宗教改革者カルヴァンは、教会は二つの確固たるしるしをもつと述べた。説教と聖礼典(洗礼と聖餐)である。人の言葉である説教が神の言葉として正しく語られ聴かれる。洗礼を通し、罪に死に新しい生が始まる。聖餐のパンとぶどう酒を通して、キリストの犠牲の死と復活の命に与り養われる。私たちもまたしるしとされ、神が生きておられることを、この身を持って証し世に遣わされていく。それらを果たすのは、ただ神の力、神の熱心である。
トップページに戻る>
西川口だよりに戻る