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2003年3月1日発行 No.417
巻頭言より

リバイバル
                                         島  隆三

 「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」
                                                       (イザヤ43・19) 

 2月16日の日曜日の早朝、主日礼拝のために祈りつつ備えていたときに示されたみ言葉である。「新しいこと」とはなんだろうかと考えたが、神によるリバイバルだと思う。
 「再臨待望」という機関紙が毎月送られて来るが、最近号に基督兄弟団聖書学院々長の大塚望師の講演が載っている。その中に、昭和35年(1960年)3月の初めに聖書学院で起こったリバイバルのことが記されている。
 "昭和35年3月の初め、春まだ浅きある夜の聖書学院の祈祷会で、十字架の主、謙遜の極みなる主に対してなんともいたたまれない思いになり、悔改めの祈りが夜遅くまで続いた。翌朝の早天祈祷会にも前夜の祈りの霊が注がれ、み言葉と聖霊の光に照らされてさらに深く扱われ、十字架の主の前に砕かれた。祈りが次々に続いて、それは、昼過ぎにまでおよんだ。そして、その夜の祈祷会も同様に導かれ、早天は毎日昼過ぎまで、夜の祈祷会も深夜まで2時間近く続いた。
 聖霊隣在の前に自らの言葉、行動の動機、他の人を審く思い、心の奥底にある残虐性などが、取り扱われた。かつて救われ、きよめられたというのではなく、神の前に現在はどうかということが問われた。イザヤ書53章全体が示され、ひれ伏して憐れみを求めるのみであった。
 その中で少しずつ顔覆いが除かれて、聖霊なるお方の執り成しの霊、謙遜、寛容、柔和、忍耐などが今更ながら目で見るように感じられた。そして、リバイバルは我が内より、リバイバルとは聖霊の取扱による悔改めであるという原則は変わらないことを知った。 
 聖霊、聖霊と言いながら、聖霊が分からない者であることを痛いほど知らされた。学院の在校生一同がお互いに悔改め、赦し合い、霊的に一つになった時に、「ああ、現に天のごとし」と聖歌が歌われ、自然に互いに手をつなぎながら天にあるような喜びの賛美の輪が広がった。 
 このリバイバルは続く全国大会に受け継がれて、全国から集まって来られた方々に厳かな聖霊の恵みが注がれ、悔改めがなされ、全国大会が終った日にも先生方は帰らずに学院に留まり、その夕方より再び集会が始まった。 
 先生方一人ひとりが主の憐れみを求めて、悔改めの祈りをし、全員が祈り終わったとき、そこに聖霊臨在が輝き、神の温かい愛に心が溶かされた。先輩後輩の別なく和解と慰めと励まし合いがあり、握手が交わされ、肩を抱き合って喜びに満たされた光景が会場に溢れて、真に基督兄弟団となった感じがしたのである。」(高野英雄牧師の報告より)
 ここに聖霊によるリバイバルとは何かという、その本質的なことが読み取れると思う。それは、私たちが先輩たちから聞いた大正のリバイバル、昭和のリバイバル(昭和5年から)でも同様であったと思う。
 1960年は、いわゆる60年安保の年である。その数年後に東京聖書学校でも小さなリバイバルがあった。それを体験した静江牧師が、新年聖会でその証しをした。私事をいえば、その頃に札幌の母教会で小さなリバイバルを経験して、信仰を新たにされたことを忘れ得ない。
 1960年代は世界各地に大学紛争が起こり、それが日本にも及び、教団の紛争にもつながった。しかし、神は各地にカリスマ運動を起し、また、小さなリバイバルの波をも起されたのだ。
 

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