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2003年5月1日発行 No.419
巻頭言より

信仰生活再点検
                                         島  隆三

 信仰生活の土台は聖書にある。これをどのように読み、また、実践しているだろうか。私たちの信仰生活を考えるに当たって、まずこの点から始めてみたい。
 私たちの教会の成人科のクラスは現在増えつつあるが、断然長く続いているのが「聖書に学ぶ会」である。2年前に「聖書に聴く会」というのも生まれた。どこが違うのかと問われると答えに窮するが、難しく言えば、前者は参考書(榎本保郎著「一日一章」等)を用いて演繹的に聖書を学び、後者はみ言葉そのものから帰納的に聖書に聴く、と言えるであろうか(しかし、実際はそれぞれの会に参加している方々の個性による違いというべきかもしれない)。
 祈祷会では、教職による聖書の説き明かしがあり、それをもとに出席者から質問や意見が出て語り合う。これもグループ聖書研究のひとつである。
 その他にも、小さなグループで聖書を学んでいる会がある。皆さんもどこかの会に所属して、共に聖書を学ぶ楽しさを味わって頂きたいと思う。
 主日礼拝ではみ言葉が読まれ、み言葉の説教がなされる。わたしたちプロテスタント教会の礼拝の中心はみ言葉の説教であり、それはもちろん大切だ。が、ただそればかりを重視すると、礼拝が学校の授業や講演会のようになり、説教に間に合えばよいと誤解する人も出てくる。しかし礼拝は、文字通り神を礼拝するのであって、その礼拝の中でみ言葉を読み、説教を聴くところに意味がある。私も子供の頃から礼拝の大切さを教えられ、自らも心してきたつもりだが、どれほど“"礼拝する心”が身についたかと自問してみると心もとない。これはわたしたちの教会全体の課題ではなかろうか。週報には、礼拝の心得として、「礼拝5分前に着席、祈り心で待ちましょう」とある。これがどれだけ実践されているか。もう一度お互いに心したい。
    
家庭において

 今日は、家庭礼拝が捧げられる家は少なくなった。色々な要因が重なってそうなってしまったが、世俗化の波が日本ばかりでなく全世界を覆っている。昔はクリスチャンホームの中心に聖書があった。今日はどうだろうか。信仰の継承が難しくなっている理由の一つはそこにある。
 家庭礼拝は難しく考える必要はない。要するに、家庭で誰かと聖書を共に読み、一言の祈りを捧げる。讃美歌を一つ歌えたらさらによいと思う。この頃は、「子供ディボーション」の本なども出ているから、子供でも理解できる解説や証しを読んで、一緒にお祈りをしたい。要は、キリストを我が家のどこに迎えているかである。
 家庭礼拝が難しくても、ひとりで神との交わりはできる。それが「ディボーション」と呼ばれる。どのようにディボーションの時を持つか。教会の先輩たちにも尋ねてみて欲しい。「これが私には一番やりやすいディボーションで、恵まれています」というやり方を参考にしていただきたいと思う。
 5月2日から金田師を中心に「ディボーションスクール」が開かれることになり、「神様との交わり」、「聖書の読み方」という基本を学ぶことになった。まさに信仰の基本を学ぶわけである。皆さんもこれに参加できたらきっと得るところが大きいと思う。何事も基本が大事だから。

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