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2003年7月1日発行 No.421
巻頭言より

生きる目的
                                         島  隆三

 信仰生活について連載しているが、個々の問題もさることながら、私たちが生きる目的は一体何でしょうか。
 有名な「ハイデルベルグ信仰問答」(1563年)の第一問とその答は、
 問一 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
 答  私が、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、私のものではなく、私の真実の救い主イエス・キリストのものであるということです。

 答はまだ続きますが、ここで切っても十分でしょう。さらに昨年、親子礼拝で用いた最近のアメリカ長老教会の信仰問答(はじめてのカテキズム)では、
 問一 あなたは誰ですか。
 答  私は神さまの子どもです。

 これらの問と答は、私たちが一体何者であり、何のために生きているのかという根本的な問に懸命に答えようとしているように思われます。
 つけても思い起こすのは、かつて記した「キリスト教とは何か」という週報短文です。「キリスト教とは何かを一言で答えなさい。」この問を神学生たちに投げかけたドイツの神学者の答は「神との交わり」でした。これは正しい答ではないでしょうか。
 少年サムエルは「サムエルよ、サムエルよ」と呼びかける主の声を聞きました。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サム上3章)と答えたところから、預言者としての彼の歩みが始まりました。彼は幼い時からそのために備えられた器でした。サムエルだけではなく、アブラハムにしてもモーセにしても、主の呼びかけに答えたところから新しい神との交わりの人生は始まったのです。
 私たちは何のために生きるのかと問うていくならば、「神と共に生きるためです。そこに私たちの最高の慰めがあります」という答が返って来るはずです。そのために主イエス・キリストはお出で下さって、神と遠く隔たっていた私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを御許に引き寄せ、神の子として受け入れてくださって、神と私たちとの交わりの道を拓いてくださったのです。このような者が「アッバ、父よ」と呼ぶことの出来る恵みを与えて下さったのです。
 私のような者が、主に礼拝を捧げ、主との交わりに生きることが許されるとは何という大きな恵みでしょうか。
 教会とは、何よりも神との交わりに生きる者たちの集まりです。その交わりにすべての人が招かれているのです。神との交わりに生きるところから、人々との真実の交わりが生まれてきます。それは、十字架の縦と横の木を思わされます。十字架の縦木は刑場に立てられていて、そこに横木を背負った死刑囚が引かれて来ると聞きました。私たちも、イエス・キリストの十字架のもとで父なる神との縦の交わりが回復され、そして、お互いの横の交わりも回復されます。 
 主イエスは十字架の上で、傍らに立つ母マリアと愛弟子ヨハネに「婦人よ、あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と言って二人を結びつけられました。十字架を中心とした母と子の絆、これこそ神の家族である教会を象徴するものです。
 教会生活の根本は神との交わりにあり、そこから伝道や奉仕が生まれてきます。しかし、教会生活とは、何か特別の生活ではなく、人間本来の生活のことです。わたしたちの生きる目的はそこにあるのですから。
 「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書6・8)
 

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