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2003年11月1日発行 No.425
巻頭言より

神のみ心はなにか
                                         島  隆三

 やや私的な巻頭言となることをお赦しください。昨年、私は大学を卒業して40年になり、仲間と共に記念文集を発行しました。そこに「与えられたこの生涯」と題する一文を書きました。この40年の歩みを駆け足で辿ってみたのです。私は理学部の卒業ですので、牧師になったのは私一人ですが、なぜあの男が牧師になったのかと不思議に思っている昔の仲間に、少しでもわかってもらいたいという意図をもって書きました。この一文は95歳になる元教授の目にもとまり、また、何人かの友人や先輩からも読後のコメントを頂きました。
 自分史を書くということは、自分自身の整理にもなると思います。初めは特に意識しなかったのですが、自分に対する神の計画は何かということが、私の意識にずっとあったと思います。特に、牧師になったのは間違いではなかったのか、本当に神のご計画であったのか、そのことを確かめたいという気持です。「棺を覆うて世定まる」(死んで初めてその人の生涯の評価が定まる、という程の意)と言いますから、まだ旅の途中ではありますが、しかし、「荒野の40年」とあるように、40年は一区切りであると思いました。
 そして自分の歩みを振り返って見て、いかにも受身の人生であったと改めて思いました。生れつき能動的な人、受動的な人など、人間にはいろいろのタイプがあります。積極的に自分の人生を切り拓いて行く人と、与えられた立場をじっと守って行く人とあれば、私は後者のタイプの人間だと思います。
 ただ問題は、どの道を行くにせよ、それが神のみ心であるかどうかという一点です。その判断さえ狂っていなければ、
 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ロマ8・28)
とのみ言葉の通りになると信じます。
 では、どうすれば、神のみ心がわかるのでしょうか。私は以前に「百日の祈り」を教えられて、百日祈りましたが、なかなかわかりませんでした。私が伝道者の道を行こうと心に決めた時に、兄が手紙をくれました。兄は、「努力して行く中で、神がそのように道を拓いてくださるなら、それが神のみ心ではないか」と書いてくれました。「神の召命に従う」という場合にも、主観的な面と客観的な面と、両面があると思います。そのことを、兄は私に諭してくれたのだと思っています。  
 ひとりの人間が神の召しに従うか否かは、初めはその人個人の問題です。しかし、人は多くの人との関わりの中で生きているのですから、個人の問題では済まなくなって来ます。例えば、モーセが燃える柴の前で神の召しに従うかどうかは、彼個人の問題でした。しかし、一旦出エジプトの指導者として立てられてからは、彼の判断は民全体に関わる重大な問題になりました。ここに、神のみ心を求める大事さと難しさがあります。
 しかし、私が牧師になったことが果たして神のみ心かどうかを幾分かでも知るためにも40年は必要だったと思います。兄が言うように、そのように神が道を拓いてくださり、自分のような者が神に用いていただくことが出来る喜びがあります。
 それは、ただ個人にだけでなく、教会にも当てはまることでしょう。神のみ心ならば、例え困難があっても、そこに従って行く時に、喜びと確信が与えられるのではないでしょうか。そのことを確認するためには、ある程度の時間も要することでしょう。
 「自分の願いではなく、み心のままに」と祈られた主イエスのゲツセマネの祈りこそ、究極の祈りであると示されています。

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