2004年1月1日発行 No.427 

分かち合いを始めましょう(金田佐久子)

 昨秋10月1日、ヤコブの手紙をディボーションしていた時「また、船を御覧なさい。・・・舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります」(3章4節)を読み、「舵取り」が心にとまり、思い巡らしました。こうノートに書きました。「教会の舵取りは神の言葉によってなされますように。イエス様、聖霊様によってなされますように。正しい道をそれずに修正しつつ進めますように」。その頃、二階のトイレの排水が悪くなっており、この日の午後、水道屋さんに来てもらいました。チョッと治して済むとの予想は外れ、その人はいったん戻って道具を取りに行き、最終的には車庫の下水道のフタを開けて作業していました。説明を聞いたら、下水道桝の詰まりで、トイレには全く関係ないことがわかりました。「下水道の桝の詰まりでトイレではない。問題はもっと本質的なところにあった。治してもらって、すべてがよくなった。神様、あなたもそのようにしてくださる。根本をいやしてくださるように」ディボーションノートの黙想の欄に書きました。ディボーションをしていなければ「水道の修理があった日」で終っていたでしょう。御言葉に聴く日々においては、出来事によっても、御言葉を悟らせていただく恵みがあります。身言葉を悟ること、それは神様を知ることであり、命なのです(ヨハネ17章3節)。
 さらに神様は、他者を通して御言葉をさらに深く理解させてくださいます。それはイエス様の取られた方法です。
 国際的な大学生のキリスト教の集会で、こんな質問が講師から投げかけられたそうです。「世の終わりまであと三年しか時間がないということが分かっていて、しかも世界のすべてを支配することのできる権威、世界のあらゆる資源を利用する権限が認められ、何でもできる能力が与えられたら、あなたはどうしますか」。講師は自国での応答を紹介しました。米国大統領の招待晩餐会を世界各国の元首の下で行う、ビリー・グラハムのような大伝道者を迎えた集会を連続で行う、全世界で24時間連続の福音放送を流す、などです。最後にその講師は「しかし、イエス様が取られた方法はそういうものではなかった。少数の弟子と深く交わり、彼らを訓練し、一人ひとりと深く関わり、ついにはご自分の命を与えられた」と言いました。(唄野 隆「交わりに生きる信仰生活」より)
 罪が世に入り込む以前から、人は「独りでいるのはよくない」被造物です(創世記2章18節)。イエス様は、弟子たちを選び出し、交わりを持ちました。ペンテコステの日以来、聖霊によって、私たちは神との交わり・他者との交わりを、いつでもどこでも持つことができるようになりました。
 それは初代教会においても見られるものです。(使徒2章46〜47節)。彼らは神殿における礼拝の後に、家ごとに集まり、顔と顔を合わせる交わりをもっていました。そこでは、パン裂き、愛餐、賛美、祈りがもたれました。その交わりは、信者でない人からも好意を寄せられました。加わってみたいと思わせる何かがあったということでしょう。
 ディボーションが定着しつつあるこの頃ですが、以前から西川口教会では聖書通読やアシュラムに取り組んできました。私も励んできました。しかし、ディボーションと分かち合いの体験を積み重ねていくうちに、今までの私の祈りの生活は、交わりへと向かっていなかったと感じています。一人よがり、自己完結であったと反省しています。ディボーションの学びでは、恵みの分かち合いを体験します。自分を開いて他者に向かい、お互いに耳を傾け、恵みを分かち合います。初めはぎこちなく感じましたが、今では、分かち合いの中に励ましと慰め、赦しといやし、発見があることを知っています。
 新しい年は、交わりの中で神様を知る喜びをもっと体験し、それが教会の経験となるようにと願っています。

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