2004年4月1日発行 No.430
新年度を迎えて
金田 佐久子
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。
(マタイ16・18)
今年の教会の主題聖句は昨年と同じ御言葉を掲げています。主イエスの教会に対する御計画を心に留めましょう。第一に、教会は主イエスのものです。教会を迫害し主の弟子たちを追っていたサウロ(後の使徒パウロ)が、ダマスコ途上で光に照らされ倒れた時、主イエスは彼に「なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけました(使徒9・3〜4)。教会が主ご自身のものであることを、主の言葉が示しています。教会を大切にすることは、主を大切にすることであり、教会を軽んじることは主を軽んじることになるのです。第二に、主イエスご自身が教会を建てて下さると約束してくださっています。この世のどんな力もサタンの力も教会に勝利することはできません。目に見える状況に振り回されることなく、この主の約束に賭けていく信仰が求められます。それは、聖霊により与えられる賜物です。第三に、「この岩の上に」の「岩」とは、ペトロが弟子たちを代表して言った信仰告白を指していると受け止めます。キリスト告白のない教会はありえません。わたしたちは、聖霊により「イエスは主である」と告白し、その告白にふさわしく、すなわち主の弟子として整えられていきたいものです。
前年度は島両牧師の転任という思いがけない変化がやってきました。このことも主なる神の御手にあるとの信仰に立ち、西川口教会は島両牧師を祝福して送り出しました。この変化に伴い内側からの変革が求められていることです。教職三人体制から二人となり、消極的にはこの体制でできるよう対応しなければなりません。一方、積極的には、教会の本質に立ち帰り活動を見直すチャンスが来たといえます。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集い」です(日本基督教団信仰告白)。先ほどから用いている「教会」とは建物ではなく、この告白のとおりキリスト者の集まりすなわち信仰共同体を指しています。教会は、集まること(集会)により存在します。そこに交わりが生まれます。新年度も、交わりの中で主によって成長させていただき、主から委ねられた宣教の業に仕えていきたく願っています。
すでに、礼拝体制ついては早くから協議を重ねてきました。4月第1主日から始まります。年間行事、交わりのグループ、奉仕体制等については、役員会で検討あるいは見直しをしていき、必要であれば全体懇談会を開いて、対話を重ねていきたいと考えています。
これらすべてのことのために、絶えず目を覚まして根気よく共に祈り続けましょう。
キリストを見上げて
永本慶子
島先生御夫妻の転任と、その後に担任として西川口教会へというお話は、私にとってまさに晴天の霹靂ともいうべき事態でした。若い金田先生と持病を持つ私、どう考えても無理だろうと思う私に「委ねよう」と決心させたのは、島先生の「御心でなければ成りませんよ」という一言でした。
まだずいぶん先のことと思っておりましたのに、いよいよ新しい年度の始まり新しい歩みの始まりとなりました。この間主は、一つひとつの歩みを導いてくださり、お働きを目の当たりにさせて下さって、「主は西川口教会を祝してくださる」という確信をいよいよ確かなものにしてくださいました。そして、今まで、母教会として私を支え愛してくださった西川口教会でご奉仕できることを、この上ない恵み、感謝と思うようになりました。
たとえどんな人が立てられようと、教会の本当に主はキリストです。私たちはそのキリストによって教会の枝々とされていますが、それは「体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長」(エフェソ4・16)させていくためです。そして「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」(エフェソ4・13)することを目ざしているのです。
自分を含めて、直接人間を見据えては絶望と裁きがあるだけです。そんな人間を愛し、そんな私のために十字架にかかってくださったイエス・キリストの愛のものすごさを思います。これからの西川口教会での働きを通しても、そのイエスの愛の似姿にほんの少しでも近づいて行きたいと思っています。
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