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2004年10月1日発行 No.436 

教会の目的とわたしたちの教会

                            金田 佐久子

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。(マタイ16・18)

 故山下萬里牧師(東所沢教会)が、何年か前のこころの友伝道講習会で「教会は、その使命を果たす限りにおいて、いのちを持つ」とおっしゃいました。その言葉がとても新鮮に心に響き、何度も繰り返し反芻しました。
 教会の使命とは何か。それは先月の巻頭言に述べたように、次の五つの目的に要約されます。
  @礼拝(神を礼拝するために)
  A伝道(福音宣教のために)
  B交わり(交わりのために)
  C奉仕(仕えるために)
  D教育(信徒を養い訓練するために)

 以上の働きがバランスよく行われるところに、健全な教会があるといえます。
 しかし、教会の使命を、バランスよく果たしていくためには、どうすればよいのでしょうか。どこから始めたらよいのでしょうか。どのように働きを評価することができるのでしょうか。
 また、この問いは、皆さんにとって、どれだけの重みをもって響く問いなのでしょうか。かつての私は、教会とその働きをわきまえていませんでした。ですから、響きの個人差があることはわかっています。この課題については、改めて書きたいと考えています。
 しかし、以前は悟らなかった者が、こうして教会の目的について書く者とされ、また、召命を受けた7年前には思いもしなかった「教会の再発見」という過程へ導かれていることに、神の恵みと憐れみを覚えます。
 神は、御子キリストの命と引換えにするほどに、西川口教会を愛しておられます。御自身をもっと明らかに知らせようと―もちろん神は初めからそのように招いておられるのですが―、この春の牧師交代という試練をとおして、ご自身に立ち帰るよう招いておられると感じています。それはまず、私自身への招きだと自覚しています。わたしたちの教会は、神の可能性に満ち、希望に招かれている信仰共同体として、神の目に映っていると確信しています。
 さて、10月は、プロテスタント教会にとって意義深い月です。修道士であったマルチン・ルターが、1571年10月31日正午、ドイツの農村都市ヴィッテンベルクにある城教会の扉に「九五ヵ条の提題」を貼りつけました。既に福音の再発見へと導かれ、ひたむきに真理を追究して生きていたルターは、当時のローマ・カトリック教会の「免罪符」の発行を看過できず、教会に公に問うたのでした。このことを契機に、教会改革の新しい時代が始まりました。
 ルターが、神学を学ぶとはどういうことかを語った言葉として知られているのが「オラーチオ、メディターチオ、テンターチオ」というラテン語です。祈り、黙想、試練を意味します。ルターがこれを語ったのは、1539年、自分のドイツ語著作集第一巻の序言においてです(第一巻は詩編講解)。その一部を紹介します。
「これまで述べてきたことを更に超えて、あなたが神学を学ぶ正しい方法を示してあげたいと思う。わたし自身がいつもこのように学んできたのである。・・・これは、詩編第119編において王ダビデが教えてくれている方法なのである。あなたはそこに三つの規則を見出すであろう。・・・それは、祈り、黙想、試練である。・・・
 第三に試練がある。これは、試金石である。あなたに、ただ知ったり、理解したりすることを教えるだけでなく、神の言葉、いっさいの知恵にまさる知恵が、どれほど正しく、どれほど真実であり、どれほど甘く、どれほど愛すべく、どれほど力あり、どれほど慰めに満ちたものであるかを、身をもって知ることをも教えるからである。」(説教塾ブックレット1「説教者を問う」より引用)
 「神学を学ぶ方法」とは、「神を知る道」あるいは「聖書の読み方」と置き換えて理解してよいでしょう。神は、祈り、黙想、試練を通して、御自身を示されます。先ほど「試練をとおして」と書きましたが、わたしたちの教会にとって、今この時は、神の言葉が生きて働くことを改めて知らされる時だと思っています。

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