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2004年12月1日発行 No.438 

イエス・キリスト―まことの愛と平和―

                            金田 佐久子

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。(フィリピ2章6〜7節)

愛の「こころ」と「かたち」
 今年の誕生日に、姉と妹夫婦からそれぞれプレゼントが届きました。それを受け取った時、心があたたかくなりました。彼女たちはわたしのためにプレゼントを選び、お祝いの言葉と共に届けてくれました。たとえプレゼントと同じ物がお店に置いてあっても、それはわたしの心を温めません。同じ物が愛する家族から届けられた時、心が動かされるのはなぜでしょうか。物を受け取るようですが、実は「こころ」を受け取っているのです。それは「今年もあなたが生きていてうれしい」というメッセージです。そして、プレゼントはそのメッセージの表現であり、愛の「かたち」といえます。
 愛は目に見えず手に取ることもできないので、愛の「こころ」はいつでも、わたしたちが受けられる「かたち」を伴って表現されます。それは必ずしも物に限りません。微笑み、あたたかい言葉、握手、抱擁、歌を歌う、一緒にいる・・・。そこには、どんな「こころ」がこめられているでしょうか。「大好きだよ!」、「あなたがいるだけでいい」、「あなたを愛しています」・・・。
 愛は働きです。愛には必ず「愛する者」と「愛される者」が存在します。愛とは、愛の発信者の「こころ」が「かたち」を伴って表されるものなのです。

多くの人の愛が冷える
 しかし、今の時代、愛のメッセージを発信する心が瀕死状態に陥っているようです。日本を見ても、世界を見ても心痛むニュースは後をたちません。特に子供が子供を殺めるという事件などは、大人たちを震撼させました。しかも、それらは氷山の一角に過ぎないことも知っているのです。
 先月の巻頭言で触れた「生活伝道から愛の共同体へ」の講義で、岡野先生はご自身が受けた相談などの体験から、今、どれだけ愛が冷えているかを語られました。「夫婦関係、親子関係で苦しんでいる人がどれだけいるか。あと借金地獄。自分の話を本当に聞いてくれる人がいない。外では幸せそうな顔をして、自殺しかないと思っている人がどれだけいるか。皆、よく生きていると思いますよ」。
   
キリストは僕のかたちをとり
 愛の冷えきったわたしたちを顧みてくれる存在があるのでしょうか。あります。聖書は、神は愛であり、神の愛の「こころ」が、時満ちて、「かたち」をとってわたしたちのもとに来たのだ、と宣言しているのです(冒頭の御言葉の「身分」は、口語訳聖書では「かたち」と訳されていました)。
 神は唯一であり、三位一体―父なる神、御子キリスト、聖霊―の神です。愛には「愛する者」と「愛される者」が存在する」と書きましたが、「神が愛である」とは、神ご自身が互いに愛し愛される交わりを持つ、すなわち父は子を愛し、子は父を愛するという、愛の共同体ということです
 人はこの交わりに生きるべく創造されましたが、「神のようになれる」という誘惑に負け、この交わりを失ってしまいました。神は人間を見捨てず、定められた時に、御子をこの地上に遣わしてくださいました。それが、イエスの誕生、クリスマスの出来事です。
 神の愛の「こころ」とは何でしょうか。それは福音です。「わたしはあなたを愛している。わたしの命をあげよう。わたしに立ち帰り、わたしと共に生きなさい」。神の愛の「かたち」とは何でしょうか。それはイエス・キリストです。キリストを知ることによって、神の愛の「こころ」を知り、キリストを信じる時、神との交わりに、生き始めることができます。
 愛の共同体は、平和の共同体になります。平和とは共に生きることです。神の愛が他者にも注がれていることを知る時に、平和が生まれます。
 まことの愛と平和であるイエス・キリストを、今、お迎えしましょう。

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