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2005年1月1日発行 No.439 

愛を追い求める

                            金田 佐久子

2005年聖句 愛を追い求めなさい。(コリント一 14・1)

備えつつ生きる
 教会は歴史の歩みの中で、主を待ち望み祈る時を、一年のある時期に定めるようになりました。クリスマスの前のアドベント(待降節)、また、イースター前のレント(受難節)があります。これらは年毎に巡り来て、わたしたちの信仰生活を助けてくれます。ただ一度成し遂げられた主の救いの御業を、一年のうちに位置付けて、繰り返し思い起こすためです。
 実のところ、わたしたちの地上の生涯は、永遠の天の国への備えの期間でもあります。死の向こうにあるキリストの命を生きることこそ、キリスト者の生き方です。
 キリストの命を生きるとは、この世にあっては自明のことではありません。なぜならこの世は、わたしたちを神から引き離そうと、攻撃を仕掛けてくるからです、ですからわたしたちは、世に流さないよう、主の導きを仰き、主の言葉に従い続けなければなりません。従う時、キリストの命がわたしたちを生かすのです。
 西川口教会では、主題聖句は主の年が改まる時に新たに掲げていますが、いつから始まった習慣でしょうか。与えられた新年の御言葉を仰ぎながら、年度末から新しい年度へ向かうことができる、良い習慣ではないかと思います。

「愛を追い求めなさい」
 さて今年は前掲の御言葉を通して、聖書に示される愛とは何か、わたしたちにとってどういう意味を持つのか、御言葉をかみしめながら、また、互いに問い合いながら歩みたいと思います。御言葉を握るならば、御言葉が私たちを守ってくれます。愛を追い求めるならば、主からの愛が私たちを守るでしょう。そのことを体験させていただく年でありたい。 
 昨年から、教会の目標、目的・使命について述べてきましたが、今年の聖句にちなんで言い換えてみますと、五つの目的は、
 @礼拝(神の愛をほめたたえる)
 A伝道(神の愛を伝える)
 B交わり(神の愛を分かち合う)
 C奉仕(神の愛で仕える)
 D教育(神の愛を知る)
と言うことができるしょう。そういう面からも、教会の働きを受け止めなおし、神の愛が満ち満ちた一年となることを願います。

「神は愛である」
 まず「神は愛である」とは、どういうことか考えてみましょう。
 前回、愛の必要条件について書きました。愛が成立するには「愛する者」と「愛される者」が存在しなければなりません。愛は独りでは成り立たちえず、誰かが誰かを愛するのです。
 主なる神は、唯一であり三位一体―父なる神、御子キリスト、聖霊―の神です。「神は愛である」とは、神御自身―父・子・聖霊―が互いに愛し合う、愛の共同体であるということです。その愛そのものである神が、天地創造の前にわたしたちを愛して、選んだのだ(エフェソ1・4)と、聖書は告げています。 
 それが、わたしたちにとってどんな意味を持つのでしょうか。助けになる一文を紹介します。
「『神は愛です』という単純な言葉は、いったんこれを土台に据えて生きようとすると、はるかに深い意味を持ち始めます。わたしを創造した神が愛であり、愛以外のなにものでもないなら、人がわたしを愛してくれる以前から、わたしは神に愛されていることになります。・・・
 わたしたちの霊的な課題は、親、夫、妻、子供、教師、同僚、友人から受ける、限られた、条件つきの、そしてうつろいやすい愛は、神の尽きることのない、無条件かつ永遠の愛を反映したものであることを、時間をかけつつ見出すことです。」(「いま、ここに生きる―生活の中の霊性―」(ヘンリ・ナーウェン))

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