トップページに戻る>西川口だよりに戻る
2005年2月1日発行 No.440
悔い改めへの招き
金田 佐久子
はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。(ヨハネ3・3)
レント
教会暦では、イースター(復活日)への備えとしてレント(受難節)の期間があります。イースター前の40日間がこれに当たります(主日は含めない)。主イエスが宣教活動に入られる前に荒れ野で40日間断食されたことにならい、教会生活の伝統では断食、節制が行われてきました。今年は2月9日からレントに入ります。
教会は3世紀頃からレントを洗礼準備の期節としてきました。イエス・キリストの十字架へ道、苦難と死を覚え、この救いの御業の意義を深く思い巡らし、悔い改めの期間として過ごします。この期間に、わたしたちは、わたしたちの心がどこに向かっているのかを問いかけ、自己中心から神中心の人間となる、心の向きの転換を求めます。
悔い改め―心の向きの転換
「わたしたちの心がどこに向かっているのか」という問いは、自分を中心に考えていても決して見えてきません。心の向きの転換は、神の視点から自分という存在、自分の置かれている時代や場所を理解し、生き始めることができるような変化です。
イエスは「神の国を第一に求めなさい。そうすれば他のすべてのものはみな与えられます」(マタイ6・33より)と言われました。これは、わたしたちの生き方としてイエスが示し、自ら貫かれた生き方です。イエスがこの地上に来られ、救いの道を開いてくださったのは、「わたしたちの心を神の国に専念させる」ためです。
神の国(天の国)とは「神の支配されるところ」という意味です。死後に行く所ではありません。神は愛です。神の国とは神の愛の満ちあふれるところです。聖霊が生き生きと豊かに働かれ、喜び、平和、真理、自由のあるところです。
そして、悔い改めとは心の向きの転換であって、どれだけ悔いたかという、人間側の悔いの程度はあまり重要でないということです。どんなに嘆き深く悔いても、それで自分に終始していては悔い改めにはなりません。イエスは、ご自身と出会った一人ひとりの悔いの程度ではなく、神に向かう信仰をご覧になりました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9・24)と、イエスに向かって、わたし自身を委ねます。
時代のしるし
昨年は、水害・地震・津波と大規模な自然災害が国内外に起こり、多くの人が犠牲となり、今も困難な状況に置かれています。わたしたちは祈りと献げもので、この苦しみに連帯しようとしていますが、一方で、「なぜこのようなことが起きたのか」との問いが湧き上がるのを否定はできません。
イエスは、時代の出来事を霊的に解釈する方法を示されました。あるとき、「ガリラヤで反乱を起こした人々を総督ピラトが処刑し、その血をローマのいけにえの血に混ぜた」と、人々がイエスに告げました。イエスはこうお答えになりました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13・1〜3)
時代の出来事、それぞれの持ち場・立場で遭遇する出来事を、自分に対する神の招きのしるしとして受けとめることができると、イエスは言われます。隣人の味わっている非常な苦しみ、痛みに連帯しながら、わたしたちの心が神に立ち返るよう、呼びかけの声に、自分自身のために耳を傾けることです。
新しく生まれる
神の呼びかけの声、それは、静かな場所、静かな時間、静かな心で、神との親しい交わりからいただくものです。その声を聞き取るためには、冒頭の御言葉のとおり、新しく生まれる必要があります。聖霊による新しい命に生き続ける必要があります。(参考「いま、ここに生きる―生活の中の霊性―」)
トップページに戻る>
西川口だよりに戻る