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2005年3月1日発行 No.441
愛の勝利―十字架と復活
金田 佐久子
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5・8)
主の晩餐(聖餐)
レント(受難節)が進んでいます。今年は3月20日が棕櫚(しゅろ)の主日で、この日から26日まで受難週となり、イエスのエルサレム入城から十字架への道、その苦難と死を覚え、復活の朝を待ち望みます。主な聖書日課も、礼拝のテキストも教会暦に沿っています。御言葉を心に留めてイースター(復活日・27日)に臨みたいものです。
ここ数年、受難週の祈祷会では一つのパンを裂く「パン裂き」の聖餐(主の晩餐)を祝っています。できるだけ多くの方が、受難週の祈祷会に集い、思いと心を合わせて、パン裂きの恵みにあずかることができるよう祈ります。
イエスと弟子たちが過越の食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちに与えました。また杯(ぶどう酒)を取り、感謝の祈りを唱え、弟子たちに渡されました(マタイ26・26〜29)。
パンを裂く。それは、イエスご自身がパンのように裂かれることを示すものでした。パンが多くの人の口に渡るようにするためには、裂かなければなりません。同じように、すべての人に命を与えるために、イエスは、十字架で体を裂かれることを選ばれました。
ぶどう酒は人の心を喜ばせ、祭りや婚礼などの祝いの席には欠かせないものでした。主の晩餐のぶどう酒は、すべての人の罪が赦されるよう、十字架の上で流されたイエスの血、契約の血を示しています。イエスが命を差し出してくださったのは、わたしたちに喜びをもたらすためでした。
罪人を招くために
イエスの弟子たちは主の晩餐の食卓を囲んでいました。マタイによる福音書第26章には、主の晩餐の直前に、ユダの裏切りが予告され、直後にはペトロの離反が予告されています。つまりイエスは、まもなく弟子たちに裏切られ、見捨てられることを承知していたわけです。
これはどういうことでしょうか。わたしたちは自分を裏切る人と一緒に食事ができるでしょうか。イエスは「わたしが来たのは正しい人ではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・13)と言われました。そうであれば、主の晩餐は罪人たちの集いであり、弟子たちが、またわたしたちが罪人であるがゆえに、イエスは、ご自分のもとに迎え入れることになります。
神に愛されている者
弟子たちは、イエスに愛されている者たちでありました。イエスが選び出し、寝食を共にし、福音宣教の旅に同行し、天の国を教え、手塩にかけて養い育てた弟子たちでした。弟子たちの裏切り・離反をご存知の上で、イエスがパンを裂き、杯を渡して晩餐を祝ったのは、御自身の命をささげても惜しくないほどに、弟子たちを愛していたからでした。言い換えれば、弟子たちの裏切り行為も、イエスが弟子たちを愛することを妨げる理由にはならなかったのでした。
これは、わたしたちの生きる世の価値観とは全く異なるものです。わたしたちは自分を愛してくれる人を愛する、ギブ・アンド・テイクの関わりで生きています。しかし、神の愛はそうではない。自分を裏切り見捨てる者を受け入れ、自分の命を差し出す愛です。神の子の命と引きかえにするほど、人の罪は重い。しかし、神の愛は罪よりも大きく、死からの勝利をもたらします。
使徒パウロは、すべてに勝るイエスの愛をこう表現しています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています・・・」(ローマ8・34以下)。
イエスの十字架は、神の愛の勝利であり、復活はその保証です。イエスは今も生きて、愛を注き、わたしたちに勝利をくださいます。ハレルヤ!
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