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2005年4月1日発行 No.442 

わたしに従いなさい

                            金田 佐久子

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15・16)

 弟子を召し出した主
 イエスは、バプテスマのヨハネが捕えられて後、ガリラヤで、神の国の福音を宣べ伝え「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。そして、宣教活動の当初から弟子たちを召し出して同行させました。
 イエスが悪霊に取りつかれた者や病人たちをいやしたので、どの町でも、イエスの元に大勢の人々が集まって来ました。しかしイエスは、群衆を動かすことは、決してなさいませんでした。
 一方、宣教活動をしながら、イエスは弟子たちをご自分のそばに置き、彼らを養い育てておられたのです。イエスは弟子たちを通してみ業を行うご計画を持っていました。
 今の日本の社会では、「弟子」という言葉は、学問・技能・芸能の世界のことで、その道に秀でている師匠にお願いして入門し、弟子にしてもらいます。血縁関係などに限定され、弟子入りが誰にでも開かれていない分野もあります。
 イエスの弟子の場合はこれとは異なります。師が弟子を呼び寄せる、つまり、イエスが弟子をお選びになるのです。イエスは、山で夜を徹して祈り、十二人を呼び集めました(ルカ6・12)。イエスはこれと思う人を呼び寄せられた、とも書いてあります(マルコ3・13)。

 弱く、欠けの多い者たち
 イエスが徹夜で祈って選んだ十二人は、一体どのような人たちだったのでしょうか。
「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」
(マタイ10・2〜4)
 弟子たちは、どこにでもいる平凡な人たちでした。彼らはガリラヤ湖畔で暮らしており、年齢的にも若く、未熟でした。職業も、性格も様々でした。
 彼らは「目を覚ましていなさい」と言われても、すぐ眠ってしまうほど意志が弱く(マタイ26・40)、イエスに香油を注いだ女に憤慨して小言を言い、イエスにいさめられ(マタイ26・6以下)、パンを持ってくるのを忘れる不注意な者で(マタイ15・5)、自分たちを歓迎しなかった村を「火で滅ぼそう」という呪いの言葉まで口にするような者たち(ルカ9・54)でした。
 イエスは、そのような人たちを用いたのです。イエスは、成熟した人ではなく、未熟な人を呼ばれました。そして彼らを通してみ業を行いたいと願われたのです。
 弟子たちの弱さが決定的に明らかにされたのは、イエスが逮捕された夜でした。食事の席でイエスは、弟子たちのつまずきを予告されました。そのとき彼らは、決してそのようなことはないと主張しました。しかしその夜、ゲッセマネの園で大勢の群衆に取り囲まれてしまうと、彼らはイエスを見捨てて逃げてしまいました。弟子たちは、愛する師を裏切るという取り返しのつかない罪を犯した、愚かで弱い者たちでした。

 主が用いる人
 イエスは十字架の死から三日目に復活され、弟子たちに現れました。彼らを一言も責めることなく、平和を告げ、聖霊の約束を与え、羊の群れ(教会)を愛し養うよう、使命を与えました。
 主が欠けだらけで失敗の多い者を呼ばれるのはなぜでしょうか。弱く欠けの多い人は、自分が足りない者、完璧ではないことを知っています。ですから、学ぼうとする謙遜さがあります。打ち砕かれて低くされ、主の赦しと愛を受けた人は、他の人々を愛して受け入れます。他の人と調和をして共に働くことができます。
 「わたしに従いなさい」(ヨハネ21・19)。この御言葉に従う小さな信仰者を主は用いられるのです。 
(参考 「弱くても用いられる」ジョン・ビョンウク著) 

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