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2005年5月1日発行 No.443
かけがえのない神の愛
金田 佐久子
あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。(ヨハネ黙示録2・4〜5)
愛のかけがえのなさ
今年は5月15日に、ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。
聖霊は見えない神の働き、神の力であり、わたしたちの心にも働きかけてくださいます。ローマの信徒への手紙5章5節を見ると、聖霊はわたしたちの心に神の愛を注いでくださるお方であることがわかります。
キリスト教は、愛の宗教だと言われます。愛を取り除いてキリスト教について何かを語ろうとするなら何もないほどに、愛は重要なものです。それにもかかわらず、キリスト者が最も多く失敗するのが愛です。キリスト者が身につけるべき積極的な品性の第一位が愛であることに、異論を唱える人はいないでしょう。しかし、愛の実践ほど困難なことはないと感じていることも事実です。なぜ、わたしたちは愛において失敗するのでしょうか。
愛に失敗したエフェソ教会
ヨハネの黙示録2章1節から7節に、エフェソ教会の状況が描かれています。この教会には、賞賛に値することがありました。それは、教会のメンバーたちの行いと労苦と忍耐です。また教会に入り込んできた悪者たちを調べてうそを見抜いたこと、よく我慢し、疲れ果てることがなかったことなど、それら一つひとつの良い業を、主はすべてご存知でした。
しかし、彼らは主に「言うべきことがある」と戒められています。「初めのころの愛から離れてしまった」(4節)からです。
初めのころの愛とは、どのような愛でしょうか。純粋で、初々しく、真実で、新鮮な、というイメージがわきます。ところが、時間が経つにつれてこのような初めのころの思いを失ってしまいがちです。主はこのようなエフェソの教会に警告を与えています。主にとって、これは決して見過ごすことができない状況であるからです。「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(5節a)。
エフェソの教会は、いったいどこから落ちてしまったのでしょうか。異端との戦いに負けることなく、行いと労苦とをささげ、我慢し努力した教会でした。真理を守るために、何が正しいか、間違っているかを問い続けていたのでしょう。しかし、それだけを問題にしていくと、事実がどうあるかだけを客観的に問うようになります。そして、真理を守るようにと聖なる生活を強調しすぎると、温かさが失われ、厳しい雰囲気になります。エフェソの教会は、無意識の内に律法主義的になり、愛が冷めてしまったと考えられます。
初めの愛を取り戻さないなら、主はどうすると警告されたでしょうか。「悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(5節b)。つまり、教会を取り除くとまで言われました。真理が生きていて聖さは保たれている教会ですが、愛を失ってしまうと存在価値までなくなるのだと、主は言われたのです。
神の愛を受ける
主は真理を無視して良いと言っているのではなく、教会が存在する理由として最も重要視しなければならないのは愛であることを、逆説的に示しておられるのです。神は愛であり、愛のあるところに神はおられます。愛のない教会は、教会として存在する意味を失ってしまうのです。
わたしたちに初めのころの愛がありますか。失われているならば、どうすればよいのでしょうか。
御言葉のとおり、神に立ち帰ることです。打ち砕かれ悔いる心を、主は受け入れてくださいます。信仰とは神の愛を喜んで受け取ることです。聖霊に心を開き、日々御言葉を黙想することです。御言葉の中には、神がどのようにわたし達を愛しておられるかが記されているからです。そのようにしてわたしたちは、かけがえのない神の愛に生き始めることができるのです。
(オク・ハンフム著「信徒を目覚めさせよう」参考)
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