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2005年6月1日発行 No.444 

子供たちをイエスのところに ―キッズ・ヤング特集号―

                            金田 佐久子

 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
                                  (マルコ10・14)


  失われたものとしての子供
 主イエスは、ガリラヤの町や村を巡って、神の国の福音を宣教し、人々を教え、癒されました。そして、飼い主のいない羊のように弱り果てた群衆を深く憐れみました(マタイ9・35〜36)。主の憐れみは、単なる同情ではなく、人の命に無関心ではいられない神の恵み深い創造的な力をあらわしています。
 エルサレム入城の前、エリコの町で、イエスはザアカイに言われました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」(ルカ19・10)。失われたものとは、ザアカイであり、同時にすべての人を指します。子供たちも、主には失われた存在であり、彼らのためにも主は来られたのです。子供も、主の救いを、福音を必要としている存在なのです。
 
  子供が後回しにされたとき
 冒頭の御言葉は、主イエスが子供を祝福する出来事の中にあります。イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来ました。弟子たちはこの人々を叱りました。もしかしたらこのように言ったのかも知れません。「子供を連れてくるなんて非常識だ。今はイエス様はとても忙しいんだ。大事なお話の最中だ。帰りなさい」。イエスはそれを見て憤った。弟子たちに向かって「わたしの邪魔をするな!」と強く言われたのです。イエスが憤りをあらわにされる場面はそう多くはありません。非常に憤慨された出来事の一つでありました。
 わたしたちが一生懸命している働きが、主イエスから見てどうであるのか問われます。イエスに手を置いて祝福していただくよう、子供たちと共にイエスに近づこうとしているのか。いつの間にか子供と主の間に立ちはだかり、主に「邪魔をするな」と言われることになっていないでしょうか。

  信仰共同体の中の子供
 イスラエルの信仰共同体は、子供を礼拝の中に位置付けてきました。子供が大人と同じように考え行動しなくても、子供は共同体の中で生き、やがて共同体の担い手になっていきました。聖書の人間理解は、基本的には大人と子供を分けていません。また、信仰は、作り出すものではなく、継承するものだという視点があります。
 旧約聖書の申命記には、子供たちに神の掟を繰り返し教え、語り聞かせよとの命令がたびたび記されています。
 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。(申命記6・7)
 大人が神の恵みに与るとき、そこに子供がいて、その恵みを共有する。そこにおいて、信仰の継承が可能になるのです。

  子どもに学ぶ
 主イエスは「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」(マタイ18・4)とも言われました。「子供のようになる」とはどういうことでしょうか。語られたイエスご自身が「子供のような人」であったはずです。親に頼らなければ生きていけない幼い子供のように、イエスは天の父に全幅の信頼をおいて歩まれました。
 一方で、「子供のようになる」ことを知恵として学べると思います。左の言葉は、キリスト教カウンセリングセンターの学びでいただいたものです。この心が自分のものとなったら素晴らしい。 
 @子供は疑問を持つ (なぜ? どうして?)
 A子供は興味を持つ (これ何? どうするもの?)
 B子供は後ろを振り返らない (常に前を見ている)
 C子供は恨みを残さない   (仲直りすれば遊べる)

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