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2005年7月1日発行 No.445
教会 ―礼拝の共同体―
金田 佐久子
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネ4・23)
礼拝の共同体
西川口教会の2005年度目標は、「礼拝の共同体」です。
「『教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集い』(日本基督教団信仰告白)である。集まること(集会)・交わりにおいて成長させていただき、主から委ねられた宣教の業に仕えていきたい。最も大切な集会である主日礼拝を基本として、教会の働きをとらえ直したい・・・」。教会総会議案書の2005年度教会活動方針に、このように書かせていただきました。皆さん心に留めていらっしゃいますでしょうか。
教会は、なによりも集い(集会・共同体)であり、神を礼拝するために集まる群れです。
社会状況の影響を受け、西川口教会においても、活動を休止や見合わせなど、変更を迫られることがありました。しかし、主日礼拝をやめようということはありません。わたしたちは「礼拝のない教会はありえない」ことを知っています。逆に言えば、礼拝をやめるとき、教会は「教会であること」を放棄することになります。ですから、礼拝に集うところにこそ「教会が成っていく」といえます。旧約の昔から、聖書が成立していった時代、そして約2000年の時を経て、今にいたるまで「神の民」は、神への礼拝を守り続けてきたのです。西川口教会という一地域教会も「神の民」に連なる群れです。
礼拝とは何か
ここで、礼拝のすべてを説明することはできませんが、聖書において「礼拝」を意味する単語を紹介して、その言葉の持つ内容を共有したいと思います。
新約聖書はもともとギリシャ語で書かれていますが、「礼拝」と訳される単語でいちばん頻繁に用いられているのは、「プロスクネオ」です。これは、誰々に口づけする、誰々の手に口づけする、また、おじぎをするという意味です。もう一つは、「ラテゥレウオ」で、これは、栄光をささげる、また、部下として尊敬と敬意を表すという意味です。ですから、天の父なる神に、敬拝と賛美をささげることが礼拝の意味するところです。
この礼拝が、まことの礼拝としてささげられるためには、聖霊ご自身がご臨在と栄光を現すように、心と精神を尽くして、天の父に敬拝と賛美をささげなければなりません。
逆に、礼拝の対象が間違ったとき、どんなに心と精神を尽くしてささげるとしても、偽りの神々を礼拝するならば、まことの礼拝ではありません。「あなたは他の神を拝んではならない」(出エジプト34・14)。また、イスラエルの民が金の子牛を造って、主の名を叫びながら礼拝したように、神を礼拝するとしても、偶像を拝むならば間違った礼拝になってしまいます(出エジプト32章)。そして、御言葉に従わず異教的な方法で礼拝するのも、御言葉に従っていない自己満足の礼拝も、まことの礼拝ではありません。
聖霊ご自身が導かれない礼拝も間違った礼拝です。神への畏れを失い、伝統や形式に固執あるいは縛られた礼拝は、律法主義的な礼拝です。聖霊の働きに身を委ねるところに礼拝が始まります。主イエスは自分たちの言い伝えに捉われている律法学者たちの礼拝を、イザヤ書の預言を引用して叱責なさいました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタイ15・8)。主は心をご覧になっておられます。
礼拝する人間
礼拝を放棄した教会が教会でなくなるならば、礼拝の担い手である人間が、礼拝を放棄するならば、人間でなくなってしまうと言えるのではないでしょうか。「ホモ・リトゥルギクス」(礼拝する人間)という言葉を紹介されました。ロシア正教会の司祭であり長老であった人の言葉だそうです。神を礼拝する人間こそ、人間の本質を生きているという確信が語られています。この確信が、今、わたしたちに求められているのではないでしょうか。
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