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2005年10月1日発行 No.448 

福音に共にあずかる者へ

                            金田 佐久子

 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(コリント一 9・23)

 実りの秋、伝道の秋が到来しました。10月16日には教育週間ファミリー礼拝を、そして11月13日には、横山義孝先生をお迎えして、西川口教会創立55周年記念礼拝をささげようとしています。さらに、アドベントからクリスマスの喜びへと、歩みを進めたく願っています。
 8月末「こころの友伝道全国大会」にアンデレ会の皆様方と共に参加しました。意義深い特別講演や楽しい交わりの時を過ごしました。その中で教会での取り組みを紹介する時間がありました。ある先生が、「自分たちの気持ちとしては『伝道集会』だが『伝道』という言葉は使いません。『伝道集会』では未信者が「自分が伝道の対象か」と区別される思いを持つかもしれない。それに『わたしを伝道してください』と言って教会に来る人はいません」という内容の発表をされました。西川口教会でも三年前ほどから同様な配慮をしていますが、未信者の立場に立ち、教会の敷居を低くする努力を続けなければと思いました。
 さて、伝道とはいったいどういうことでしょうか。おおまかな言い方ですが、伝道とは、未信者がキリストを信じることを目指す働きといえるでしょう。教会につながるいろいろなきっかけがあり、また教会としては伝道の入り口となるような様々な活動をしています。そして信仰を持つのは、やはり「信仰は・・・キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10・17)、すなわち、未信者が福音を聞いて信じるという出来事が起こる、聖霊がその出来事を起こしてくださることによります。それは神の御業です。わたしたちはこの神の働きを待ち望みながら、福音を告げ知らせ続けていくのです。
しかし、福音を告げ知らせる、すなわち、福音宣教という尊い務めを委ねられていながら、わたしは思い違いをしていたことに気づかされました。そのことを示してくれたのが、村瀬俊夫先生(今年の西川口アシュラム講師)の説教です。ここに引用します。
「・・・ややもするとわたしたちキリスト者は、『福音は自分が他の人(しかも未信者)に告げるもので、信者である自分自身には告げる必要がない』と思い違いをしています。もしそうだとしたら、とんでもないことです。わたしたちキリスト者は福音がなくても生きていけるのでしょうか。福音の源であるキリストを離れたら、わたしたちは瞬時もキリスト者ではあり得ません。わたしたちがキリスト者であり続けるために、いつも(日々新たに)福音を自分自身に告げる必要があるのです。・・・」(青山朝祷会奨励より)。
 これは祈りの勧めですが、礼拝・諸集会においても同じことが言えるでしょう。例えば、今度の教会創立55周年記念礼拝は、「伝道」という言葉は使わなくても伝道礼拝です。しかし、もしわたしたちが「この礼拝は長欠の方や求道者向け」として、自分自身にも福音が告げられていることを忘れてしまったならば、思い違いをすることになります。
 使徒パウロは、「わたしが福音に共にあずかる者となるために、福音によってどんなことでもする」と語りました。相手によって自分が変わることができるパウロ。福音に共にあずかることを目指しているパウロ。このパウロの信仰に倣い、わたしたちが福音に共にあずかる者となりますように。

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