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2006年1月1日発行 No.451 

主との愛の交わり―一つになるために―

                            金田 佐久子

 主の年2006年を迎えました。おめでとうございます。
 新年の教会の聖句は、昨年と同じ「愛を追い求めなさい」(コリント一14章1節)を掲げます。既に聖霊によって注がれている賜物である愛を、さらに豊かに受けるように願っています。教会の聖句を思い巡らしながら、信仰や教会生活を吟味し、愛を追い求め続けることができますように。

  神の愛の交わり
 「愛」は「愛する者」と「愛される者」が存在しなければ成り立ちません。そうであるならば、「神は愛である」とは、神御自身において愛は実現されていることになります。三位一体の神―父なる神、御子キリスト、聖霊―において、御父・御子・聖霊が、互いに愛し合っておられます。神は愛の共同体であられるのです。この神の愛の交わりに、わたしたちキリスト者は招き入れられたのです。
 このことは、昨年、飯沼一久・かおり御夫妻の結婚講座での学びを通して新たに悟らされました。神の前にある結婚は、信仰に似たところがあります。夫と妻の人格的な交わりは、キリスト者と神との人格的な交わりと似ており、どちらも、神御自身の愛の交わりを反映したものです。夫と妻は別の人格。キリストとわたしも別の人格。しかし一つ。それは、父、子、聖霊とそれぞれ独自の在り方をされながら、唯一であられ、互いに愛し合っている神の御姿の反映なのです。

  欠けだらけの現実の中で
 しかし、自分自身を振り返ってみると、「人格的な交わりが形成できているか」と問われるならば、「困難を覚えています」と言わざるを得ません。前向きに言えば「少なくてもそれを願っており、発展途上にあります」。その困難を表現することもまだ上手くできず、申し訳ないと思いながらも、共感させていただいた文章をここに紹介いたします。
 「人格的な交わりは相手と正面から向き合うこと、相手の話を本気で聴くこと、その時の自分の気持ちを正しく相手に伝えることのうえに成り立つが、相手の本心が分かるまで聴くことが基礎になる。しかし、現実の夫婦関係ではまともに向き合える夫婦は少ない。相手の話を聞ける人はまれだ。それに自分の気持ちを正確に表現できる人も殆どいない。だからその交わりは浅い。同じことをわたしたちは主との交わりでも経験している。・・・」(ロンドンJCF 「交信」65号 唄野隆師 修養会講演要旨より)
 
  主に望みをおいて
 幸いなことに、わたしたちが救われる前に、主イエスは既に祈ってくださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハネ17・21)。主イエスの祈りが聞かれないはずがありません。ですから、ここに希望があります。
 主イエスが祈られたように、神の力なくしては、わたしたちは主との人格的な交わりに生きることができません。しかし人格的な交わりは、一方通行的な関係ではありませんから、わたしたちが成すことがあります。それは、先の引用の表現を借りれば、主の本心が分かるまで、静まって主の言葉に聴く、主が語られることを聴くことです。その上で、自分の率直な気持ちを伝える(祈る)ことです。

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