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2006年2月1日発行 No.452 

罪を覆う神の愛

                            金田 佐久子

 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。(ペトロの手紙 一4・8)

  愛を追い求める
 西川口教会の今年の聖句は「愛を追い求めなさい。」(コリント一14章1節)を、昨年に引き続き掲げていきます。
 愛を追い求めるとはどういうことか。簡単に結論づけず、わかったつもりにならず、御言葉に示される神の愛を、日々そのまま受け止めたい。それが自分の心にどう響くのか、しっかりと向き合いたい。その響きを率直に兄弟姉妹に分かち合いたい。御言葉に導かれて、主の後に従っていきたい。そのような営みを積み重ねながら、主に愛されていることをもっと悟りたいのです。

  愛とは何か
 愛とは何でしょうか。この現代日本社会では「愛」という言葉が「好き」とか「欲」とかと同じように使われており、また言葉だけが空しく氾濫しているように感じます。自分の感じていることだけでは偏りがありますから、国語辞典で、「愛」を引いてみました。
 まず「@親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち」。次に「A 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋」。これらは、身近な人間関係―家族、恋人、友人―の中にあらわされている愛なのですね。
 さらに「B ある物事を好み、大切に思う気持ち」。「C 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心」。人だけでなく、物事、例えば、音楽や芸術、学問なども愛する対象になるのですね。世界、人類、環境、宇宙を愛する人もあるでしょう。
 「Dキリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。アガペー」。「E 仏教で、主として貪愛(とんあい)のこと。自我の欲望に根ざし解脱(げだつ)を妨げるもの」。いわゆる世界宗教の教えも登場します。
 「愛」とは漢字では一文字ですがこれだけの内容を含み、用いられていると改めて知りました。何度も繰り返し書いておりますが、これら辞書の内容からでも(Eの仏教の教えは除きます)、愛は単独では成り立たず関係の中で働くこと、つまり、愛する主体があり愛する対象があって成立する、といえます。
 
  神の愛が示された
 「愛」に相当するギリシア語はいくつかあります(新約聖書の原典はギリシア語で書かれています)。前述の「アガペー」はその一つで、そして重要な言葉です。「アガペー」の愛とは、無償の愛、報いを求めない愛であって、神の愛を指しています。先ほどは一般的に「愛」とは何かを調べて書きました。しかし、神の愛は調べて分かるものではありません。神自らが示してくださって初めて知ることができるのです。
愛そのものである永遠の神が、人を愛することを決意されました。人は神にかたどって、神に愛され、神を愛するように創造された存在です。その神の決意は、人間が罪を犯しても変わることはありませんでした。神を知らず、神にそむき、神に敵対していた罪人のために、神はご自身の愛を、御子によって示してくださいました。(ローマ 5・8)。御子キリストの十字架の死によって、信じる者に、罪の赦しを得させてくださったのです。

  多くの罪を覆われて
 冒頭の聖句は、ここ最近心の中で繰り返し味わい、かみしめている御言葉です。聖書は豊かに神の無限の愛を表現していますが、この御言葉もその一つだと思います。罪を犯してしまうわたし。しかしそのわたしが丸ごと、主の愛というマントで包みまれて、神の目に愛する者として映っている。一方的な神の愛を覚えるのです。そのとき、悔い改めて、立ち上がる力をいただくのです。
新年度に向かうこの時、罪を覆う主の愛を深く思い巡らしてみませんか。神に罪を覆われたことを知る者が、隣り人を愛することができるのです。

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