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2006年3月1日発行 No.453 

祈りを教えてください

                            金田 佐久子

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。(ルカ福音書11・1)

  教会アシュラムへの招き
 今年は3月1日からレント(受難節)に入ります。受難日は4月14日の金曜日、イースター(復活日)は4月16日になります。救いの核心である主の十字架と復活の出来事を、心新たに思い巡らせる期間といたしましょう。
 特に今月は、昨年に引き続き村瀬俊夫先生を再び講師にお迎えして、第30回西川口教会アシュラムを開催します。祈りによって祈りを学ぶこの集いに、一人でも多くの方が参加しますように。

  まことの人、主イエス
 最近朝のディボーションで、ルカによる福音書4章を開きました。主イエスが荒れ野で誘惑を受ける出来事でした。何度も読んだ聖書箇所でしたが、その日、新たに気づかされたことがありました。
 悪魔は主イエスを高く引き上げて世界の国々を見せ、次にはイエスを神殿の屋根の端に立たせています。ということは、イエスは体ごと悪魔に運ばれたわけです。「なぜイエスは悪魔に連れて行かれるままにされたのだろう。逃げなかったのか、抵抗しなかったのか」と不思議に思いました。さらに何度も読むうちに、「人として生きたイエスがおられる」と示されました。イエスはSF映画に出てくるような超能力者などではない。わたしたちと全く同じ人間でした。肉体を持ち、限られた存在であったのです。だからこそ、主イエスでも誘惑は避けられない時があり、体ごとさらわれてしまうこともある、そう思いました。
 信仰問答などで「主イエス・キリストは『まことの神であると同時にまことの人』です」と学びます。使徒信条で唱えられる「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」も「キリストは神であり人である」という信仰の告白です。わたしはこの真理をまだ十分に悟っていないのでしょう。「イエスさまは神様だから」として安易に主イエスを別格扱いにしていないか。そんな危うさを感じました。

  弟子たちに教えられた祈り
 主イエスはわたしたちと変わらぬ人間であられ、地上の生涯を、十字架の死に至るまで父なる神に従順に生きぬかれました。主イエスの生き様は神に従う生き方以外の何物でもありませんし、同時にキリスト者の模範です。わたしたちは主のまねをして生きる、ということです。特に祈りが大切です。主イエスは祈りなしに生きることはできなかった、そのことを心に留めなければと思います。しかし、わたしたちはしばしばどう祈っていいかわからないのです。
 主イエスは折々に退いて祈っておられました(マルコ1・35など)。その姿を弟子たちが見ないときもあり、見るときもありました。ルカ11章1節以下の箇所では、主イエスはある所で祈っておられ、その姿を弟子たちは見ていた。何を祈っていたかわからなかった弟子たちでしたが、主イエスのように祈りたいと思いました。また当時、洗礼者ヨハネの弟子たちもヨハネから祈りを教わっていたようです。それで「あなたの弟子であるというしるしに、わたしたちにも祈りを教えてください」と願い出たのです。主イエスは「祈るときには、こう言いなさい」と弟子たちに祈りを教えてくださいました。それは今わたしたちが「主の祈り」と呼んでいる祈りです。

  天の父と呼べる恵み
 「主の祈り」は、ルカ11章では「父よ」、マタイ6章では「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて始めます。祈りは独り言ではありません。「天のお父さん!」と主なる神を父と大胆に呼べる。主イエスによって、わたしたちも父なる神を呼び求める道が開かれたのです。生ける神が耳を傾けてくださるのです。
 この3月は主の弟子として、また神の子として祈ることができる恵みを新たに味わい、祈りを謙遜に学びたく願っています。


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