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2006年4月1日発行 No.454 

神の愛が示された

                            金田 佐久子

 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5・8)

  わたしの「ニード」
 先月は、第30回西川口教会アシュラムが開催されました。講師は昨年に引き続き村瀬俊夫先生をお迎えしました。
 アシュラム集会では、参加者は一人ひとり、自分の「ニード」、すなわち、神に解決を願い求める事柄を携えて臨みます。今回のアシュラムに際してのわたしのニードは、神の愛を、頭で理解するだけでなく、心で感じるだけでなく、全身で体得したいということでした。
 ニードが起こされたきっかけは、昨年の教会アシュラムで村瀬先生が「福音を体で聴く。神の愛を全身で受けとる」とおっしゃったことです。わたしには「体で」聴くとはどういうことかわかりませんでした。途方にくれる思いになりました。わたしの福音の理解は、体全体に至っていない。わたしの心と体、思いと生き方に乖離がある。そのことだけははっきりしました。
 ヨハネによる福音書第3章には、ユダヤ人議員ニコデモが、ある夜主イエスを訪問したこと、二人の対話が書かれています。ニコデモはイスラエルの教師、聖書に通じている専門家でありました。しかし、主イエスのしるしを見聞きして、自分にはないものをイエスは持っていると認めざるを得なかったのでしょう。主イエスから直接、真実を知ろうとしたのです。
 わたしは、このニコデモの「知りたい」という渇きに自分を重ねるようにして、今回の西川口教会アシュラムに臨みました。

  神の愛が示された
 主題となったローマ5章から最初のメッセージをいただきました。キリストの十字架は、神がキリストを死者の中から復活させてくださった、その光に照らされてこそ、その意味が分かります。わたしたちがまだ罪人であったときに、わたしたちのために十字架にただ一度命をささげてくださった。それは、わたしたちの罪を赦し、神の子にしようという神の愛の決意の表れでした。
 ローマ12〜13章の静聴では「愛には偽りがあってはなりません」が心に留まりました。偽りのない愛とは何か、また偽りとは何か。福音書に登場する律法学者たちは、神に熱心に従いながら、その心は神を愛する愛から程遠く、かえって主イエスをねたみ、陥れようとしました。彼らは自分が偽善者だとは露ほども思わずにいたのです。わたし自身も無自覚のうちに、思いと言葉に隔たりがある。偽りのない愛とは何か。そう思いながら、翌朝を迎えました。
 早天祈祷会では、コロサイ1章13節「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」が引用されました。ここでの動詞は「完了形」、すなわち「わたしたちは、神の愛する御子の支配下に移された。そして今も移されている」と説き明かされ、主の変わることのない恵みの下に生かされて続けているのだ、と力強い宣言を聞きました。ああ、ここには偽りはない。神の真実な愛によってわたしにも御業が成され続けている。これからも成され続ける。だから「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げなさい」(ローマ6・13)を、神の愛に押し出されて素直に受け取りました。これは、永本慶子先生の献身の御言葉ということです。
 主日礼拝では神の愛が力強く宣言されました。「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すものは、何もない!」(ローマ8・39より)。この神の愛の勝利、決して離れない神の愛に対する確信と平和を与えられました。そして、神の愛を体得することへの希望を新たにできました。
 なお、一年を通じてファミリー(小グループ)ごとに集まる機会を持ち、互いに励まし合い、祈りたく、家長会で、次のアシュラムまでファミリーを続けることを確認しました。わたしたちは、互いに愛し合う交わりを、これからファミリーを通して体験することでしょう。

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