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2006年5月1日発行 No.455 

天と結ばれた日

                            金田 佐久子

  天はどこに
 2年前の夏、説教塾のセミナーで黙想を分かち合う時間がありました。ある方が「わたしたちは『天』をはるか彼方、遠いところにあると思っていないか。けれども、聖書はそう言ってはいない」と語り、ルカによる福音書の第2章8節以下、羊飼いたちに天使が現れ救い主の誕生を知らせる出来事を引用しました。「羊飼いたちの周りに、すぐそばに天は開けたんですよ」。確かに聖書には「主の栄光が周りを照らした」(9節)と書いてあります。その方は続けて、「説教を聴いたとき『自分のすぐ隣で天は開ける』ことを知った」と説教体験を語られました。
 聖書に向き合うとき、思い込みや読み込みから解き放たれて、御言葉一字一句を注意深く、あるがままに受けようという勧めでしたが、そのような説教が語られ、聴かれたら、なんとすばらしいことだろうと感じました。

  天のはしご
 主日礼拝や週日の集いで、「天が開ける」御言葉の体験を待ち望むことも大切な姿勢です。しかし、決して集会だけに限定されるものではありません。
 最近読みました「黙想と祈りの手引き」(加藤常昭著)から、ヨハネス・ブールスという方の言葉に感銘を受けました。
 この方はカトリックの司祭であり、ドイツ西部のある神学校の先生で、ひたすら学生のこころのために配慮する人でした。激動の二十世紀、二度の世界大戦や戦後の時代を過ごし、さまざまな変革、繁栄、危機、騒乱を体験されました。彼は、時代の危機に克つために、創世記第28章12節を引用して、どのような人間にも、天に昇るはしご(新共同訳では「階段」)を用意することが大切であることを示唆しました。具体的な出来事、経験をするときに、そのはしごを用意すべきだと言ったのです。そうすれば、どんなことが起こっても、そこで、われわれがしっかりと歩むことができる、そのことには変わりはない、としたのです。
 創世記第28章12節はヤコブの夢が語られているところです。天と地をつなぐ階段(はしご)が、天から地に向かって伸びている。そこから天使が降りてきて、神の言葉を伝えてくれる。ブールスはその「天のはしご」が一人ひとりの魂の中に用意されていなければならない。それを用意させてあげるのが自分のような者の責任である、と考えました。
 わたしたちが恵みを受けたアシュラム集会・ディボーションの目指すところも同じです。日々の祈りの中で、神の声を聴き、しっかりと道を歩むことです。あなたは天のはしごをお持ちですか。
さらにブールスは「わたしたちが生きておられる神に受け入れられている。それが基礎であり、出発点なのだ」と言いました。信仰とは「わたしたちが(わたしが、あなたが、そして共に)、生きておられる神に受け入れられている」と信じて生きることではないでしょうか。

  天と結ばれた日
 イースター礼拝では、四人の受洗者が与えられました。わたしたちが洗礼を受けたとき、天の父は、御子に語られたのと同じ言葉で「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」(マルコ1・11)と、語りかけてくださいました。この日わたしたちは天と結ばれ、天から力を注がれて生きる道を歩み始めたのです。

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