トップページに戻る西川口だよりに戻る

2006年6月1日発行 No.456 

ペンテコステの意味

                            金田 佐久子
  バベルの塔のお話
 どうして人は多くの言葉を話すようになったのでしょう。
 昔、世界中は同じ言葉を使って、同じように話していました。平野に集まってきた人々は「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」と言い、町を建て始めました。大きな町と大きな塔。主なる神は「このままでは、人間が自分たちの力で何でもできると思い込み、神を忘れ、自分たちが世界で一番えらいのだと思うようになってしまう」と思われ、人々が話していた同じ言葉をばらばらにされました。その結果、人々は互いの言葉が聞き分けられなくなり、全地に散らされたので町の建設をやめました。この町の名はバベルです(創世記第11章1〜9節より)。
 子供の頃は「それで多くの言葉があるのか」と思いましたが、今では物語によって人間の現実を伝えていることがわかってきました。人が神を忘れ、自分の力で成そうとする姿。互いに言葉が通じない、そして心と心が通い合えない現実。けれどもその現実も神の御手の支配にあることを覚えたい。神は、人を驕りから遠ざけようと介入され言葉を分けられたのです。

  聖霊が降る
 人が自ら集まる時神の思いに反することを企てたと、バベルの塔の物語は伝えます。しかし神が人を招く時、すなわち、人が神に呼び集められる時、そこに神と人、人と人の言葉が通じ合う出来事が起こります。それが、ペンテコステ(聖霊降臨)に現された神の出来事でした。
復活された主イエスは、弟子たちに聖霊が降る約束を与えると、天に引き上げられました。弟子たちはその言葉を信じてエルサレムにとどまり、心を合わせ祈って待ちました。
 主の昇天から十日後の五旬祭の日、弟子たちが集まっていると、突風が吹いたような音が家中に響き、炎のような舌が一人一人の上にとどまりました。一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話し出しました。この物音に集まって来た人々は、彼らが外国語で神をほめたたえているのを聞いて驚き、とまどいました。
 その時弟子のペトロが立ち上がり、「ナザレの人イエスこそ、神が遣わされた救い主である。イエスは十字架で殺された。しかし、神はイエスを復活させられた。わたしたちはそのことの証人です」と、力強く語りました。この説教に心を打たれた人々にペトロはさらに語りました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は・・・わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒言行録2・38〜39)。この言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、三千人ほどが仲間に加わりました。教会の誕生です。
 この約束は今も、子供にも大人にも分け隔てなく、神を信じる者に実現します。毎主日の礼拝はペンテコステの約束の現われなのです。
 

トップページに戻る西川口だよりに戻る