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2006年 8月1日発行 No.458 

愛 と 平 和

                            金田 佐久子
 
  愛とは捨てること
 今月号の西川口だよりは「ファミリーキャンプ特集」で、参加者の感想文がまとめられています。一人ひとりどのような思いが与えられたのか。大切に受け止めたいと思います。
 キャンプ2日目の閉会礼拝では「イエス・キリストに愛されて」と題して、ヨハネによる福音書第15章から御言葉に耳を傾けました。さらに、繰り返し味わっています。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。(ヨハネ15・12〜13)
 主イエスが弟子たちに示されたのは、友のために命を「捨てる」愛でした。わたしたちが「愛する」というとき、どれだけのことを相手にしたか、してもらったかに目が向くのではないでしょうか。「してあげた」、「してくれない」と心の中でよく言っています。しかし、主は「愛とは捨てることだ」と語られました。御子キリストは、天の座を捨てて人間と同じ者になり、その命を十字架に捨てて、救いの道を開いてくださいました。

  平和は愛し合うところに
 8月は特に平和を思い、平和を願う特別な月です。
 単純に言えば、平和の反対は不和ですね。互いに愛し合うところに平和は生まれるはずです。主イエスは弟子たちに「互いに愛し合え」と命じられました。主にある愛の共同体は平和の共同体でもあります。
 宗教改革者カルバンの言葉に出会い教えられました。「だれでも自分自身に熱中しており、自分の習性は忍んでもらおうとし、他人の習性には合わせようとしないものである。そこで、わたしたちは非常な苦労をして平和を求めなければ、平和を保持していくことはできない」。
 相手の習性を受け入れて自分を合わせていく。互いに相手に合わせていく。それが互いに愛し合い、平和を保つ姿です。家庭において夫は妻に、妻は夫に、親は子に、子は親に合わせていく。教会でも、地域でも、国と国との間でも、違いを認めて受け入れ合うならば平和が生まれます。そこには必ず苦労が伴うことをわきまえていたい。わたしも父と二人暮らしですが、二人だけでも相手に合わせるのはなんと難しいことでしょうか。
 その苦労を引き受け、平和を追い求めさせる力はどこにあるでしょう。それは主の愛の力、福音の力によるのです。このわたしがイエス・キリストに愛されている、わたしが受け入れられている、その愛を体全体で分かったとき、愛に押し出され、相手を受け入れられるように変えられていくことでしょう。
 8月末には「こころの友伝道ソウル国際大会」が開催され、アンデレ会の兄姉数名が教会から送り出されます。国や文化の違いを互いに認めながら、主にある平和を体験させていただける時と期待しています。

 
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