トップページに戻る西川口だよりに戻る

2006年 11月1日発行 No.461

秋の特別礼拝説教より   「『なぜ』こんな事がと問う時、その答えは』

                                   キリスト教カウンセリングセンター所長 賀来 周一 先生

 120キロ以上の洋上を飛ぶ国際旅客線は聖書を必ず積むのだと法律で決まっているそうです。驚きました。これは、何が起こるかわからない、そういうときに最後に必要なのは宗教であることを、聖書が象徴しているのです。
 もう一つ柴又の寅さんです。寅さん映画にはいつも帝釈天が出てきます。それは「宗教というものが最後には切り札を握っている証拠だ」と助監督から聞きました。寅さん役の俳優・渥美清は亡くなる前に病床洗礼を受けました。
 世間は宗教の大切さを知っています。今日、不条理の問題を出しましたのは、そこにこそ宗教の答えがないとどうにもならないと思っているからです。
先日、保育園の子供たちが道を歩いていましたら、そこに自動車が突っ込み四人亡くなる事故がありました。親にはたまらないことです。しかし、こういうことは大なり小なり私たちの生活に入り込みます。不条理とは、信仰がある人にもない人にも降りかかってくるのです。
そのことを聖書で一番身近に感じるのは「ヨブ記」です。ヨブは信仰深い人だったのです。彼は全財産を失い、体じゅうできもので覆われ、ひとりぼっちになってしまいました。ヨブの姿から「信仰を持ったからといって、災いから逃れることはない」と聖書は教えており、それに対して一つの答えを出そうとしているのです。
 人間はこういう不条理に何らかの答えを持っています。「仕方がない」。また「悪いことしたから罰が当たった」。あるいは「時間が経てば分かる」。しかし、時間が経っても答えは出ません。「神の試練。それによって強くなる」。けれども強くなれません。人間の答えは他人に対して言う言葉です。自分の身になると、答えが出てきません。
 ドロテー・ゼレの「苦しみ」という本に、ユダヤ人強制収容所の出来事が書かれています。あまりの過酷さに脱走した子供が捕まる。ナチの兵隊は、子供たちを広場に呼び寄せ、脱走した子もしなかった子も一緒に並べ、一人ずつ番号をかけさせる。「1,2,3,4,5」と言うと、五番目の子供は銃殺される。ゼレはこの出来事を引用し、「なぜ、五番目に立っていた子供が殺されなければならないか。そういう時に、『神は全能である』とか、『神は愛である』とかは通用しない。もし神がいるならば、あの五番目ごとに殺されてしまう子供たちと一緒に銃殺される神しかいない。人間の苦悩を一緒に苦しむ神。そういう神は、十字架のキリストの中にいます」と言います。わたしはなるほどと思いました。
 十字架でイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。キリストは罪なき方です。しかも、キリストは神ご自身でした。神が神に向かって「なぜわたしをお見捨てになったのですか」とおっしゃる。こんな、とんでもない不条理はないですね。「神様はいない、だからわたしはこんなつらい目に遭っている」という方がいらっしゃると思います。それとちょうど同じ、誰からも見捨てられたところにキリストは身を置いた。キリストは復活なさる方、今も生きておられます。その方が、それこそ「神も仏もない!」というところに身を置かれました。それが十字架の出来事です。不条理の極みにキリストは身を置かれたということです。
 神学校のプログラムで南京近郊の教会をいくつか回ったことがあります。どこの教会にも聖壇のところに「以馬内利」と掲げられていました。中国語で「インマヌエル」(「神我らと共にいます」)。これは、文化大革命でたいへんな迫害を受け信仰の火が吹き消されそうになった時、自分たちと一緒にいて苦しみを共にする方を信じることによって生き延びられた、それを忘れないためだそうです。一緒に苦しんでいる方がいる。これは大きな慰めだと思います。
ヨブ記38章は、ヨブの苦しみに対する答えです。しかしヨブが問いかけたときに、神は「それはこういうことだよ」ではなく、ヨブに対して問い返されるお方です。神はヨブの向いている方向を一緒に向いて、問う者と一緒に問う。それがヨブ記に出てくる神です。
このことは頭の中で考えただけでは物足りません。
 教会に脳性まひの方がいました。彼女は学校に行くこともできませんでした。22歳で亡くなるひと月前、「先生、わたしの人生はなんだったのかしらね」とおっしゃった。答えがないです。「神はあなたと一緒に苦しんでいる御方ですよ」と言葉で言っても力がない。いつもと同じように聖餐式をしました。「これはキリストの体、これはキリストの血」と言った時、「わたしの人生はいったい何だったのか」という問いで人生を終えていくほかない彼女のそばに、問いごと全部キリストが受け止めてくださる出来事が起こっている、と思いました。
 聖餐式は「飲み食い」です。聖餐式のキリストは、十字架のキリストであり復活のキリストです。その方を、「飲み食い」という感覚で受け止める世界で教えてくださいます。年をとって説教を理解できなくなっても、わたしたちは聖餐式で信仰を養えます。神はわたしたちに知性と共に感性も教えてくださいました。その両方で信仰を養っていきます。その中でわたしたちは共におられる方を知ります。わたしたちがどうしようもなくなっても、教会は居て良いところです。宗教の大切さを教えてくれるところです。
 柴又の寅さんが教えてくれました。映画を観るたび、「寅さんも最後は洗礼を受けたか」と思うと、洗礼はわたしたちにとって身近なところにありますね。そういう意味で教会につながっていただきたい。
 皆様方の上に豊かな神の祝福がありますように。主は共におられます。(文責・金田佐久子)