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2007年 1月1日発行 No.463
「小さな群れよ、恐れるな」
金田 佐久子
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ 12:32)
主の年2007年は、上に掲げた御言葉を選び取り、礼拝ではルカによる福音書を開くことにしました。
ここ数年、ホームに入居される方があり、体や心が弱くなり、主日礼拝に来られない方が増え、礼拝出席数が減ってきています。「少なくなってさびしいなあ」との声も聞こえます。率直な思いでありましょう。
牧師と役員会が、伝道と牧会に手を抜いているのか。決してそうではありません。しかし、「これでいいのだ、変わる必要はないのだ」と考えているわけでもありません。日々新しく、絶えず成熟を目指しています。そして、地域の方々や身近な人々へ教会が届いていく余地があると思っています。
老いや、老いから来る病や弱さがあります。人格の未熟さとそれゆえに招いてしまう失敗もあります。キリスト者として生きる苦難もあります。教会の内外で、理解されない苦しみ、分かり合えない痛みがあります。自ら命を絶つ人がこれほど多い現実に教会が無力であることを、途方にくれる思いでいます。礼拝に新しくこられた方が続かないことに胸を痛めます。危機意識、問題意識を失うことはありません。
その上でわたしたちの「今」を思い、あえて「小さな群れ」としてこの聖句を受け取りたいのです。「小さな群れ」が聞くべき神の言葉は、「恐れるな。あなたがたの天の父は喜んで神の国をくださる」です。
ルカ福音書の背景となる信仰共同体も決して大きな群れではなかったと思います。であるからこそ、その群れに著者ルカが、神の声を、主イエスの言葉を語り聞かせてくれるのです。「小さな群れよ、恐れるな」と。「あなたがたの天の父は、喜んで、惜しみなく、神の国を与えてくださるのだ」と。神の国とは、神の支配なさる領域です。神が来られるところ、神がおられるところ、神が働かれるところです。
神がお出でにならず、神がおられず、神がお働きにならない教会・キリスト者というのは言葉の矛盾ですね。神によって選ばれたのが教会であり、キリスト者ですから。「大丈夫だ、あなたがたのところに、神は喜んで来られる。神はおられる。神は働いてくださるのだから」と、主イエスが語ってくださいます。
著者ルカによって示された神の国の福音を受け取り続けましょう。
終わりに、福音書をどう読むか、竹森満佐一牧師のマルコによる福音書1章1節の説教から紹介します。
“・・・注意しなければならないことは、この福音書は、イエス伝とは書いてなくて、マルコによる福音書と、福音書と書いてあることであります。このことは、だれでも読みながら、実際には、よく考えていないのです。福音書という字は、福音という字なのであります。だから、マルコによる福音書というのは、マルコが伝えた福音書と言うことであります。これを読む人は、どんなに、主イエスのご生涯が目についても、本当は、福音を読まねばならないのであります。イエス伝と書かないで、福音書と言っていることが、大事なのです。福音書ですから、イエスという人の話を読むのではなくて、福音を読みとらねばならない、ということなのであります。
主イエスの話されたことやなさったことを読んで、福音を知るのです。福音書は、そういう目的を持って書かれた本であることをよく知らねばなりません。・・・”
福音への集中です。
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