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2007年 2月1日発行 No.464 

キリストにおいて選ばれた

                            金田 佐久子
 
  主イエスの弟子たち
 主の年2007年の教会の御言葉をもう暗記されましたか。何度でも口ずさんで心に刻みつけましょう。
 この御言葉は、ルカによる福音書の文脈においては、主イエスが弟子たちに語られている教えです。主は弟子たちに向かって「小さな群れよ」と呼びかけておられるのです。
 主イエスに声をかけられた者たち、すなわち、主と共にいた弟子たちはどんな人々だったのでしょうか。
一般に「弟子」とは、師について学問や技芸の教えを受ける人のことです。その専門にいかに秀でている人の弟子になれるか。弟子入りしたい人が、自分を賭ける師の門をたたいて、受け入れられて、初めて弟子となるのです。
 しかし、福音書に登場する主イエスの弟子の場合はそれとは異なります。弟子入りしたのではないのです。師が弟子を呼んだのです。特に「十二使徒」と呼ばれた弟子たちは、師である主イエスの、徹夜の祈りの果てに選ばれた人々でした。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6:12〜13)
 その十二人の中には、ガリラヤの漁師たちや、徴税人がいました。いろいろな背景を持つ者たちが、主イエスに呼び集められ選ばれました。ここに信仰共同体としての教会の原型を見ることができます。

  神の選びに気づくとき
 あなたが教会へ導かれたきっかけはどんなことでしたでしょう。
いろいろな悩みや行き詰まりを感じて礼拝に行ってみようと思ったり、ミッションスクールから奨励されて来たが、続けようと決心したり、家族や友人にキリスト者がいたので、などと、礼拝に集う動機はさまざまです。ついに「信じよう」と決断してキリスト者になります。わたしが教会に行き、わたしが説教を聞き聖書を読み、わたしが信じました。信仰はわたし(自分)が決断したことでした。そうでなければ信仰生活を始めることはできません。
 しかしさらに聖書に親しんでいくうちに「わたしが決断して信仰生活が始まったようだけれども、どうもそれだけではないようだ」、ということに気づかされていきます。
 主イエスは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。自分が信じる、自分が神を選んだ、あなたはそう思っているかもしれないが、そうではない。神があなたがたを選んだのだ、と聖書は語ります。
聖書の言葉を、神が自分に語られた真実の言葉として受けとめられたとき、その人のうちに逆転が起こります。わたし(自分)が中心だった信仰が、神中心の信仰に逆転するのです。さらに、神の目から見たわたし(自分)、隣人、教会、世界を知るのです。
 使徒パウロは語りました、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ 1:4)。
 教会に連なる一人ひとり、そして教会は、なんと天地創造の前から、神に愛されている存在です。わたしたち(教会)は神のものとなるためキリストにあって選ばれた弟子の群れなのです。
 
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