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2007年 5月1日発行 No.467
信仰はどこから
金田 佐久子
西川口教会は、近隣のキリスト教主義学校から勧められ、また東京に近い地の利もあって、特に春から初夏にかけてのこの時期は、多くの生徒・学生の方々、その保護者の方々も礼拝に出席されます。キリスト教や聖書、教会に関心を持たれて、礼拝に続けて来られている方もおられます。心から喜んでいます。
わたしたちは、所用があったり、体調が思わしくなかったりして、日曜日の教会の礼拝を休むことがあります。けれども教会が礼拝を休むことはありません。ですから、礼拝の主体となっているのは教会といえます。教会の礼拝には、子供から高齢者、老若男女、さまざまな人がおりますけれども、礼拝の主体はキリスト者の集まりです。キリスト者とは、キリストを信じる信仰を持っている者です。ただ、キリストを信じる信仰によって結ばれているのが、教会というキリスト者の集まりなのです。
では信仰とは何でしょう。キリストを信じるとはいったいどういうことなのでしょう。キリスト教信仰とは、信心深いということでもないし、宗教心があるというのでもありません。キリスト教の信仰とは、文字通り、イエス・キリストにかかっている。キリストという御方を信じる。対象が明確です。信じるとは、ただ一つのことです。イエス・キリストがしてくださったことを自分のためのものとして受け入れることです。
聖書は語ります。
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(コリント二5・15)
その一人の方とはイエス・キリストです。キリストがしてくださったこととは何でしょう。キリストはすべての人のために、十字架で死なれました。その目的は、すべての人が自分のためだけはなく、自分たちのために死んで復活されたキリストのために生きることでした。信じるとは、このキリストの死と復活が自分(わたし)のためであったと受け入れることです。
そこで、こういう問いがおこるかもしれません。なるほど、信仰とはそういうことかもしれないけれども、どういうふうにして信仰を持つことができるのか。信仰とは、自分が信じる、わたしが信じていると言えなければならないのだから、どのようにして信仰を得るのか、と。礼拝に来られた方の中に、あるいは、いろいろなところを通されて、そのような思いをお持ちの方がおられることでしょう。
けれども「どうしたら信仰を持つことができるのか」という問いに答えることはできないのです。キリストを信じる信仰は、自分で始めることができないのです。信仰は外から自分の中に入って来るものだと理解しているからです。ですから「信仰はどこから来るのですか」、そう問い直すほかないのです。
聖書は語ります。
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ
10:17)
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです(コリント一12・3)。
キリストを信じる信仰は、神の霊(聖霊)の力によって、キリストの言葉を聞くことによって、始まるのです。礼拝から始まるのです。
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